同謂之玄 玄之又玄 衆妙之門
「同、之れを玄と謂い、玄のまた玄、衆妙の門」
言い回しはそれぞれ微妙に異なりますが、読み下しに間違いようはありません。
あとはどう解釈するかだけです。
「同じということ、之れを玄という」
この「同じ」は、「同出にして名を異にす」の「同(出)」のことです。
重要ゆえに「同は玄」と念押しをしています。
第2章に「有無相生」、有と無は相い生ずとあります。
無と有は同出なので、相い生ずといったものです。
無と有は相い生じた、これは「同出」であるが、それが「玄」なのだと老子は見抜いているのです。
「玄」とは何か、次にご説明いたします。
一般の考えでは、「無」と「有」は、異なります。
常識でいっても、有るのと無いのとでは、まったく異なります。
しかし、老子は、それは「名(立場、概念)」が異なるだけで「同出」である、この「同出」ということが「玄」なのだといっています。
ここに老子の真骨頂があります。
詳しくは、第2章を読めば理解できると思います。
分かりやすくいうと、森羅万象、この天地万物世界すべての事物は、同じところから生じたものである。
無と有、陰と陽、白と黒、違うようであるが、聖人たるべき君子候王は、元を正せば同じものであるそれらに、とらわれてはならないといっているのです。
なぜなら、君子候王は、「有」となる一般庶民の立場ではないからです。
君子候王は、天地の始まりである「無」の立場にあって「妙」を観るべきだからです。
「無」にあれば、無と有は同出なので、「有」となる、そのような理(ことわり)を「玄」といいます。
老子は、そうとらえたのです。
「玄」とは、素人に対する玄人という言葉や、玄妙、幽玄、玄米などからも分かるように、奥深い大元や高いレベルを意味します。
「同、之れを玄という」
この意味を平たくいえば、この世の現象や事物は「同じ」である、そういう理解が奥深い根本的な真実であるということです。
次の一文。
「玄のまた玄」
そのままの内容です。
あえて理屈をいえば、最初の「玄」は、「同、之れを玄と謂う」を指すので「同出」のことです。
「無」と「有」です。
そのまた「玄」なのですから、「無」や「有」のそのまた奥にある根源、すなわち「名」を指します。
「名」こそが「玄のまた玄」です。
「玄のまた玄、衆妙の門」なので、「名」やその働きを「衆妙の門」といっています。
「衆妙」、すなわち「すべての妙」は、「名」より出ず。
そういう意味です。
ただし、「名」は衆妙の「門」なのです。
門は出口にすぎません。
それゆえ「衆妙の門」の奥には、当然、「衆妙」、すなわち「道(Tao)」があります。
門を出なければ、外から中は見えません、
それゆえ「道(Tao)」は見えないのです。
老子は、この一文で「道(Tao)」や「名」という言葉を使いませんでした。
それが重要ではないからです。
『老子』は学術書ではなく、あくまでも治世実践のための思想書です。
理屈はどうでもいいのです。
「同、これを玄という」
この万物世界の事物や森羅万象は、結局のところ「同じもの」にすぎない。
そういう奥深い根本的な真実に気づいて、右だ左だ、白だ黒だ、善だ悪だ、そういう現象にこだわらずに「無」におり、「無」を為すこと、それが聖人たるべき君子候王の治世である、そう悟ってもらうことが重要だからです。
「衆妙の門」から一歩だけ出た「無」。
すべての現実は、そこから始まったために、国を治める君子候王も「無」にあって、国家の始まりにあるべきなのです。
そして第2章に続きます。
第2章では、このことをさらに具体的に述べています。
その上で、聖人たるべき君子候王のおるべきところと、なすべきを説いていきます。
『老子』は、まるで21世紀の共鳴の書のようです。
「宝瓶宮占星学」のサイトからこのサイトに飛んできた人は、当該サイトでいう宝瓶宮時代の「共鳴関係論」に通じるものがあることを直観するでしょう。
そこに「玄」たる宇宙観があるからです。
かつて春秋戦国時代(BC770-BC221)の君子候王の思想だった『老子』も、今や自由民主主義社会の世になって、一般市民も参考にできるようになりました。
正しく解釈することが重要ですが、老子の時代を超えた超絶さに驚きます。
One-Point ◆ 『老子』に詳しい方であれば、ここまでご説明すれば充分でしょう。第2章以下にも随所に読み下しの間違いがあります。機会があれば、第2章の読み下し等だけでも、ご紹介したいと思います。
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