故常無欲以観其妙
「故に、常に無を欲し以って其の妙を観る」
ここも従来の読み下しとは異なります。
多くの場合、「故に、常に無欲にして、以って其の妙を観る」と読み下します。
「無を欲し…」。
かたや、「無欲にして…」。
これでは大きく意味が異なってきます。
別の書では、「故に、常に無は以って其の妙を観さんと欲す」と読み下しています。
「無は…」が主語です。
『老子』第1章、その最初にもかかわらず、誰がといった主語もなく、いきなり「無欲にして」は、果たして誰に言っているのでしょうか?
また老子は、壮大な第1章「天地生成論」の中で、いきなり「無欲にして…」と誰に対してか分からないことを述べるでしょうか?
「無は天地の始まりの名」または「無は、天地の始まりを、名す」と定義した直後の一文なのです。
ありえません。
下の「同出而異名」からしてもありえません。
老子は「無を為す」ことや、「欲無くして民自ずから樸なり」と治世を説きます。
しかし、第1章は、「天地生成論」に触れ、全体の定義をなす部分です。
そこに脈略もなく、主語もなく、「無欲にして」はありえません。
よって、「常に無を欲すれば、天地の始まり、その妙を観るようになる」という意味でこそ、前後の脈絡が通じます。
常有欲以観其徼
「常に有を欲し以って其の徼を観る」
ここも多くの場合は、「常に有欲にして、以って其の徼(きょう)を観る」と読み下されます。
「欲有りて其の徼を観る」と読み替えても同様です。
ヘンな言い回しです。ありえません。
ここで「有欲」を述べることはありえません。
「有を欲さば、以って其の徼を観る」が正解です。
ちなみに「徼(きょう)」とは、目に見える現象面、事の結末を意味します。
「有」は万物の母なので、「徼」は現われた万物世界、その有り様や結末です。
老子は、「妙」と「徼」とを対比させつつ、「無」と「有」を欲した場合の違いを君子候王に説いています。
なぜでしょうか?
「無」と「有」は、天地万物世界の根源です。
「妙」が法則的なものだとすれば、「徼」はその結果として現れたものです。
「無」の働きが「妙」、つまり見えない「法則」です。
「有」の働きが「徼」、つまりこの世界の現実的な「結果」です。
それゆえ「無(法則)」にあれば、自ずから治世が「有(結果)」として成るからです。
もし、君子候王が「有」にあれば、一般庶民と同様に、白だ黒だと事の結末に一喜一憂したり、右往左往して、大局を見失いかねません。
君子候王は、常に「無」にあって、治めずして治めるべし、というのが老子の思想です。
庶民のように「徼(結果)」の些細なことにこだわってはいけないのです。
それゆえ「無を欲し、その妙を観よ」と述べたのです。
蛇足ながら「有欲」という言葉はありません。
「無欲」の反対は「欲」です。
単に語調を整えるためだけに、「有欲」と使うほど、老子は無能でも、また文才がないのでもありません。
One-Point ◆ 第5章に「天地不仁」「聖人不仁」とあります。そのまま、天地は仁ならず、聖人(たる君子候王)は仁ならず、と読み下します。TOPはときに「非情」に見える決断が必要です。かつて「人一人の命は地球よりも重い」と迷言を吐き、テロリストに保釈金を払った、「仁」なる首相がいました。テロリストの活動を支援し、かえってより多数の人命を危うくするために、国家を治める聖人ではありません。これも白だ黒だと「徼(結果)」にこだわわったゆえです。
此両者同出而異名
「此の両者は同出にして名を異にす」
この一文は重要です。
第1章「天地生成論」を解釈するポイントとなる一文です。
この読み下しは、誰であっても間違えようがありません。
「此の両者は、同出にして名を異にす」以外にないのです。
「此の両者」は、どれでしょうか?
「此の両者は同出にして…」といっています。
「無」を欲することによって「妙」を観、「有」を欲することによって「徼(きょう)」を観ます。
ゆえに、「妙」と「徼」は別々の出で、同出とはなりません。
同出は、「無」と「有」を指します。それしかありません
ここまで分かれば、重要なのは、次の一文、「名を異にす」です。
同出にして名が異なると記しています。
「名が異なる」というのは、「名」があるということにほかなりません。
「道(Tao)」にはもともと「名」がありません。
第32章に「道常無名」、道は常に名無しとあることからも分かります。
「名」は「名」そのものなので、「名を異にす」とはいえません。
結局、「無と有は、同出にして名を異にす」ということです。
では、話は戻りますが、「無名天地之始」は、どう読み下すのが正しいのでしょうか?
「名無きは、天地の始まり」ですか?
それとも、「無は天地の始まりの名(無は、天地の始まりを、名す)」でしょうか?
すでに、「03.老子のフレームワーク」に書いたとおりです。
「無と名すは、天地の始まりのことである」、という意味です。
「無の名は…」で正解です。
「名無きは、天地の始まり」ではありえません。
それだと「無」の定義や意味が消えてしまいますし、「無」が「名」を失ってしまいます。
「無」という名は、天地の始まりを指すのである、で意味が通じます。
ただ、「名無きは、天地の始まり」と読み下したとしても、老子の教えと、矛盾はしません。
なぜなら、名も無き「道(Tao)」は、「無」の究極の根源だからです。
「名無き道(Tao)は、天地の始まり」ともいえます。
飛躍はあるものの、間違いとまでは言い切れないのです。
それゆえにこそ、逆に読み下しを間違える可能性が生じます。
しかし、老子がここで云わんとしたことは、
「無は天地の始まりの名、有は万物の母の名。この両者は同出にして名を異にす」
です。
なぜ、わざわざ「同出にして名を異にす」と記したのかというと、次から「同」の奥深い意味に言及するからです。
One-Point ◆ 上下2巻に『老子』が分けられたのも、各章に分けられたのも、後の世の人の便宜上です。それゆえ、第1章最後の「同」への言及は、第2章の内容に受け継がれていきます。第2章で述べる「有無相生」、無と有は相い生ず、それゆえ何々という説明は、聖人たるべき君子候王の治世の考えに、重要な意味を持ってきます。
Copyright(C) 2011 - Seiji Mitoma All rights reserved.