無名天地之始
「無の名は天地の始まり」
正しくは、上のように「無の名は天地の始まり」と読み下します。
多くの場合、「名無きは天地の始まり」と読み下しています。
本当でしょうか?
確かに、第32章には、「道は常に名無し」とあるので、名のない「道(Tao)」は天地の始まりとしても、意味は通じます。
老子の思想と矛盾はしません。
それも一理はあるのですが、第1章においては、論理の飛躍なのです。
第1章後半の次の一文と整合性がとれなくなります。
次の「04.第1章解釈のポイント」で紹介しますが、「此両者同出而異名」と齟齬(そご)をきたします。
「この両者は、同出にして名を異にす」
詳細は後述します。
正しくは、「無の名は天地の始まり」と、読み下さなければなりません。
または「無は天地の始まりの名(無は天地の始まりを名す)」のほうが分かりやすいかもしれません。
「名無き」が主語ではなく、あくまでも「無」が主語です。
老子は賢い人です。
『老子』の冒頭において、「道(Tao)」や「名」は一般に言われているような意味ではないと、まず定義づけを行なっています。
「無」も初出ゆえ、まず定義づけをしたものです。
「無と名すは、天地の始まりのことである」、そういう意味です。
これによって、この後の文章のすべての意味が、すんなりととおっていきます。
『老子』に一本、筋がピーンと貫かれるのです。
有名万物之母
「有の名は万物の母」
これも、上のように「有の名は万物の母」と読み下します。
多くの場合、「名有るは万物の母」と読み下しますが、間違いです。
正しくは、「有の名は万物の母」です。
もしくは「有は万物の母の名(有は万物の母を名す)」のほうが分かりやすいでしょう。
初出ゆえ、これも「有」を定義づけたものです。
「有と名すは、万物の母の名(立場)のことである」、です。
ここから、老子独特の「宇宙観」が語られていきます。
簡単にまとめてみましょう。
「無」は天地の始まりであって、何もなかった。
「有」によって万物が生じ、森羅万象この世界が生まれた。
ゆえに、天地万物の根源は「無」と「有」、すなわち陰陽思想でいう「太極」であった、ということになります。
老子のオリジナリティーは、太極が生じた、その極源にさかのぼって明らかにしたことです。
「太極」の根源には、「名」があった。
「無」とか「有」と、名づけた働きです。
さらにその「名」の極源は、名も無き「道(Tao)」です。
「道(Tao)」には名がありません。
「名」以前だから当然です。
これが老子の正しい「天地生成論」の解釈です。
One-Point ◆ 先人の諸説があるのに、なぜ「正しい」と言い切るのか? この解釈によって、『老子』の著述に矛盾がなくなるからです。ご判断は皆様に委ねます。ただ、老子がなぜ最初に「天地生成論」を述べたのか。そこに『老子』のフレームワークがあるのです。
名も無き「道(Tao)」。
名の有る「無」と「有」。
この違いを理解することが重要になってきます。
「無」は無ではなく、「無」という名が有るのです。
この「名」は、ふつう言われているような名(名称)ではないことは、もはやご存じのとおりです。
「名とすべき名は、常の名に非ず」です。
「名」は、立場や役割ではないのですが、そのような概念を生み出すものです。
あえていえば、「道(Tao)」の働きが「名」です。
古来、国家においても、「命名」はTOPの権限でした。
「無」とか「有」とか呼んでる時点で、すでに概念として有るのです。
そのため「無」とか「有」は、もはや無ではないのです。
しかし、「道(Tao)」は、名さえもない無なのです。
ここに老子の「天地生成論」の2段構造があります。
「無から有が生じる」
それが『老子』を貫く根本命題です。
このテーマから、聖人たるべき君子候王の治世論が展開されます。
老子は、天地自然の奥深い理(ことわり)から、それを見抜きました。
One-Point ◆ 「天地生成論」の2段構造というのは、「無から有」が2回繰り返されることです。最初の無は、名のない「道(Tao)」です。次の無は名のある無です。太極の片方です。そこから有が生じます。「無と有」が2回繰り返されることによって天地の理となるためです。
『老子』は、治世のための思想書です。
そのポイントは、大きく二つあります。
国を治める君子候王は、高きではなく、谷や海のように低きにあるべし。水のように低きに下るべし。
よって「無」をなし、語らずしてしぜんに治めれば、民は自ら然(しか)りなり、ということです。
初めての方は少々、理解しにくいかもしれません。
老子は、通常、理解されているように、道徳によって、何か為して国を治めれば、正しく治まると述べたものではありません。
まして、恐怖政治や権謀術数といった暴力や権力や詐術によって国が治まる、とも述べていません。
「道とすべき道は、常の道に非ず」です。
『老子』解説書を読めば、だいたい当たらずといえども遠からずのことを書いています。
それが本当の「無為自然」です。
一般庶民である私たちが「無為自然」をなすのではありません。
君子候王が無を為し、国を治めれば、民は自分から自然と有る、つまり自ずから然(しか)りとなっていくということです。
それが老子の治世の思想です。
One-Point ◆ 第60章には「大国を治むるは、小鮮を烹るがごとし」とあります。小魚を煮るようにそのままにしておいて、TOPは、あまりあれこれと弄(いじ)るな、ということです。先の両首相のようにあれこれ弄ると、普天間問題や原発問題が生じて、かえって自分の居場所がなくなっていくのです。
君子候王が無にあれば、民も自ずから然りと有るようになっていくということです。
君子候王が「無」、一般庶民が「有」です。
「無」は天地の始まり、「有」は万物の母なのです。
そういう「名」、いわば立場です。
君子候王がどちらにおるべきか、いうまでもありません。
始まりである「無」です。
一般庶民は「有」です。ゆえに、農耕や狩猟によって万物を生み出し、国を豊かにしていきます。
この道理を、老子は「天地生成論」で諭しているのです。
ここに老子の宇宙観があります。
ご理解いただけますでしょうか?
繰り返しになりますが、老子の「名」は、厳密には立場や役割りではなく、いわば「道(Tao)」の働きです。
名によって概念づけや位置づけがなされていきます。
「無」に始まり、「有」にて万物が生じました。
君子候王に始まり、一般庶民にて国が豊かになります。
ゆえに君子候王は、「無」に居るべし。
分かりやすくするために、簡単に図式化しましたが、これが「老子のフレームワーク」です。
老子は、「天地生成論」によって、この道理を諭したのです。
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