※第1章をまとめて掲載しておきます。
道可道 非常道
名可名 非常名
無名天地之始
有名万物之母
故常無欲以観其妙
常有欲以観其徼
此両者同出而異名
同謂之玄 玄之又玄 衆妙之門。
道とすべき道は、常の道に非ず。
名とすべき名は、常の名に非ず。
無は、天地の始まりを、名し、
有は、万物の母を、名す。
故に、常に無を欲し、以って其の妙を観(み)る。
常に有を欲し、以って其の徼(きょう)を観る。
此の両者は、同出にして名を異にす。
同、之を玄と謂(い)い、玄のまた玄、衆妙の門。
本当に道とすべきは、
普段、いわれているような道ではない。
本当に名とすべきものも、
普段、いわれているような名ではない。
無という名は、天地の始まりことであり、
有という名は、万物の母のことである。
ゆえに、常に無を求め続ければ、
天地の始まりである妙を知ることができる。
常に有を求め続ければ、
末端の些細な結果のみを見ることになる。
無と有というのは、
本来、同じところから始まり、名(立場)が異なるだけだ。
同じところから始まったということが、奥深い真実なのである。
奥深い真実のさらにまた奥深きところから、
この世のすべての妙なる理(ことわり)が生じたのである。
聖人たるべき君子候王は、国家を泰平に治めるには次のことに心せよ。
(天地生成論は略します)
普段、一般にいわれているようなこの世の「道理」というのは、君子候王が規(のり)とすべきものではない。
同様に、有名や著名、また「名分」すなわち、それぞれの立場における役割りや物事も、君子候王が範(のり)とすべきものではない。
それらは臣下や庶民のなすべき役割りである。
君子候王たるもの、天地の始まりと同じように「無」の立場にあって、「無」をなせば自ずから然(しか)り、と治まっていく天地の妙(真理や働き)を知るべきである。
決して、この世の「有」である末端の細事、美しいとかそうではないとか、善だとかそうではないとか(第2章より引用)にこだわるべきではない。
「無」である天地の始まりによって、この世が生じたのであるから、いわば「有」であるこの世の差異は、名や事情が違うだけで、すべては同じである。
君子候王がどちらか一方に関与すれば、もう一方をないがしろにし、自ら立場を失うことになる。
なぜなら、ないがしろにされた者は、今は口には出さずとも、不満を持ち、国が治まらなくなるからである。
君子候王たるもの、天地の始まりのさらに奥深くにある「無」におって、「無」をなし、自ずから然(しか)りと国が治まるようにするべきである。
それが、この世界が生じた「天地生成論」の道理に従って、自然と天下泰平の治世がなる道である。
One-Point ◆ 解説文は、『老子』第2章以下の趣旨も一部、交えて意訳しました。老子が言外に意味を持たせたダブル・ミーニングも含めた第1章の解説です。
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