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連載 占星学と解く「日本成立史」
その4:応神と初代「神武天皇」
− 登場人物の正体を暴く −

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高度な政治判断をしたアメのタリシヒコと聖徳太子の正体

↑ かつて聖徳太子とされた肖像画

●第1稿 : 2013年 3月28日アップ




《表記の統一》
※時代にかかわらず「大王」や「王子」は、基本『日本書紀』に準じて「天皇」や「皇子」に表記を統一しています。

日本古代史には、キーパーソンとなる人物が何人かいます。
問題なのは、いくつかの事情から『日本書紀』が、そのキーパーソンの正体を隠したり、脇役にして架空の天皇や人物を仕立てたり、別の人物にすり替えて「大和一国史」と「万世一系」を演出していることです。
ここでは、架空の初代「神武天皇」と、古代のヒーロー「聖徳太子」の正体をお届けいたします。

《 初代「神武天皇」 》

統一「日本」が成立した7世紀を正しく読み解くためにも、まずは架空の初代「神武天皇」を解き明かしておきます。
紀元前660年1月1日(旧暦)に即位した初代「神武天皇」は、その「紀元前」という年代から、架空の人物であることは多くの人が認める事実です。
ただし、「神武天皇」のモデルとなった実在の人物がいます。
一般的には、それが第10代「崇神天皇」だとされます。
その理由は、『日本書紀』の「神武天皇紀」に、「だから古語にもこれを称して次のようにいう、“初めて天下を治められた天皇”と申し…」と記されており、「崇神天皇紀」にも「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)という」と記されているからです。
二人とも「初めて国を治めた天皇」と記されていることから、安直に決めているだけで、他に根拠はないのです。
残念ながら、正解ではありません。
詳しい史実は、いずれ書きますが、簡単にいうと、「神武天皇」は「大国主神(おおくにぬしのかみ)」から国を譲り受けて、大和を建国した初代天皇とされています。
「国」を譲り受けたのなら、その前に国が成り立っています。
最初に建国して治めていた人物こそが、名実ともに「御肇国天皇」で、大国主神こと「崇神天皇」です。
諡号(しごう)をみても、それは明らかです。
「神武」という諡号は、九州(から)の初代天皇という意味です。
「天武」もそうですが、九州「倭国」の天皇に「武」という文字をあてたのは、天智天皇の血を引く8世紀の人物で、淡海三船(おうみのみふね 722年-785年)が、2文字の漢風諡号として新たに定めたものです。
他にも「武」の文字は、架空の「神功皇后(じんぐうこうごう)」とその皇子「応神天皇」を支えた正体不明とされる人物「武内宿禰(たけのうちのすくね、たけしのうちのすくね)」にも付いています。
武内宿禰も九州の出自で、「武内(たけのうち)」は九州の内、「宿禰(すくね)」は地元の「王(主)」のことなので、武内宿禰王なる人物の素性は、「九州(大)王」を意味します。
一方、「神」というのは始まり「初代」を意味します。
それゆえ「神武」という諡号は、架空の人物ながら、「九州(から)の初代天皇」で問題ありません。
しかし、「崇神」という諡号を初代天皇とするには、大問題が生じます。

One-Point ◆ 淡海三船が定めた第44代「元正天皇」までのうち、「崇」の文字を持つ天皇がもう一人います。弑逆(しいぎゃく、しぎゃく=臣下によって殺)された「崇峻天皇」です。そのような不吉な意味を併せ持つ「崇」を、栄誉ある初代天皇にはつけません。ちなみに、元正天皇以降では「崇徳天皇」がいます。これまた天皇でありながら、四国に島流しされ、怨みをもって死んでいった日本の大怨霊とされる天皇なのです。


●「饒速日命」の意味は?

饒速日命(にぎはやひのみこと)の意味を考えてみます。
「饒(にぎ)」は「あふれるほどゆたか」という意味があります。
単に「にぎ」ではどうでしょうか。
「にぎ」と読む漢字は、「和」や「熟」があります。
つまり「にぎ」には、国が「和した、熟した、ゆたか」に完成したという意味が込められています。
「速」は、そのまま速いで「先に」という意味です。
「日(ひ)」は、古代日本人なら「霊(ひ)」の意味です。
『日本書紀』でいう「高皇産霊神(たかみむすひのかみ)」の「霊(ひ)」です。
『古事記』では「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」になります。
結局、「饒速日命」も「先に国を作って治め、霊となった(祟る)貴い人」ということになります。

《 「崇神天皇」の正体 》

第10代「崇神天皇」は、「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」で間違いありません。
「神」の文字を持つことからも分かります。
上述したとおり「神」は、始まり「初代」を意味するからです。
なぜ、ここまで文字にこだわるのかといえば、次の2つの理由です。
当時の日本は、漢字の意味を知って使いこなせるようになって間もない時代なので、漢字の使い方にはこだわりを持っていたからです。
もう一つは、「魚宮」の民族性を持つ日本人は、大自然すべてに霊性を感じますので、文字や言葉にさえ霊「魂=もの」があると考えていたからです。
そのような日本人が、初代天皇に「崇(祟)」という文字を用いることはありません。
では、「崇神天皇」とは誰なのでしょうか。
「神武東征」以前に、畿内「大和国」を最初に治めていた大王です。
「神武天皇紀」でいう、饒速日命(にぎはやひのみこと)その人です。
「神代紀」でいう、大已貴神(おおあなむちのかみ)その人です。
大已貴神は、一書(あるふみ)にいう、大国主神(おおくにぬしのかみ)、また大物主神(おおものぬしのかみ)、また国作り大已貴命(おおあなむちのみこと)、また大国玉神(おおくにたまのかみ)、またの名を顕国玉神(うつしくにたまのかみ)とされています。
たくさんの名前がありますが、意味は一つです。
「先に国をつくって治め、祟るようになった人物」ということです。
「崇神」という諡号と同じ意味です。
諡号において「崇」と「祟」が同じ意味なのは、いずれご説明いたします。
では、初代「神武天皇」は誰なのでしょうか。
「神」=初代の文字を持つ天皇は、あと一人しかいません。
第15代「応神天皇」です。
応神天皇は、九州筑紫の生まれです。
母の名前を「神功皇后」といいます。
頭に「神」が付く「神功皇后」は、「神武天皇」と同じ架空の人物です。
下に「神」が付く「崇神天皇」と「応神天皇」こそ、実在の初代で始祖となる人物です。
「神」が付くのは、この4人のみです。

One-Point ◆ 崇神天皇の「崇」の文字は「あがめる」と読みます。一方、よく似た「祟」の文字は「たたる」という意味があります。諡号においては、「崇=祟」の差し替えが行なわれているのです。「崇神天皇」は、初めて国を作ったゆえに「崇める」存在ですが、同時に、九州から東征した実在の初代天皇に国を譲り、滅ぼされ殺されたゆえに「祟る」存在なのです。


●仲哀と神功は「皇祖神」?

『日本書紀』や『古事記』の中で、母子ともに「神」の文字を持つのが「神功皇后」と「応神天皇」です。
明らかに皇祖です。
応神天皇に箔をつけるために、当時の事情から三韓征伐を「神功皇后」に当てはめています。
応神の父は、これまた架空ですが、「仲哀天皇」です。
中国の正史『宋史』「日本国」伝の中には、面白いことに、次のように書かれています。
「次は仲哀天皇にして、国人は言う、今は鎮国香椎大神と為すと。次は神功天皇、今は太奈良姫大神と為すと」
居並ぶ歴代天皇のうち、応神の父母のみ「大神」だと、当時の日本人が思っているのです。
つまり、応神が初代だと知っていたので、その両親は「大神=皇祖神」だという認識です。

《 神武と応神の共通点 》

さて、いわゆる「応神天皇」が初代「神武天皇」の実在のモデルです。
海王星入宮と日本の霊性」や「日本の成立と「和」の象徴」に書いてきたとおりです。
とはいえ、にわかには信じられない方も多いでしょう。
詳細は、最終回でお届けいたしますが、まずは二人の共通点を挙げておきます。

『日本書紀』
1、九州生まれ
●「神武天皇紀」より抜粋
「天皇は東征に向かわれた。-中略- 筑紫の国の宇佐に着いた」
※『日本書紀』では、神武天皇がどこで生まれたかは記されていません。
東征に向かわれて、最初に着いたのが、宇佐(現在の大分県北部)である以上、九州の生まれで間違いありません。
中国や朝鮮など海外の生まれなら、福岡など九州の北岸に着くからです。
●「神功皇后紀」より抜粋
「12月14日、後の応神天皇を筑紫で生まれた。時の人はその産みどころを名づけて宇瀰(うみ)といった。」
※現在の福岡県糟屋郡宇美町宇美1-1-1 宇美八幡宮とされる。
●「応神天皇紀」より抜粋
「仲哀9年12月、筑紫の蚊田でお生まれになった。」

『日本書紀』の中で、唯一、出生地が明示されているのが応神天皇です。
それも、筑紫なので、現在の福岡県を中心とした九州北部です。
九州「倭国」や「倭王」の存在を完全に消した『日本書紀』では例外中の例外で、異例なことです。
それでも記さざるをえなかったのは、一つは実在の初代天皇ゆえです。
もう一つは、中国や朝鮮など、海外の出自だと思われないためにも残さざるをえなかったものです。

2、第4子
●「神武天皇紀」より抜粋
「名は彦火火出見(ひこほほでみ)という。ウガヤフキアエズノミコトの第4子である。」
※母は、海神(わたつみ=海人族)で豊玉彦(とよたまひこ)の2番めの娘、玉依姫(たまよりひめ)。
●「応神天皇紀」より抜粋
「誉田(ほむた)天皇は仲哀天皇の第4子である。」
※母は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)こと神功皇后。
注)応神が太子のとき、「去来紗別神(いざさわけのかみ)」と名前を入れ替えて、「誉田別」としたという逸話が付記されています。これは「応神」がどこか史実とは異なることを示唆したものです。

3、即位日が1月1日
●「神武天皇紀」より抜粋
「辛酉の年春1月1日、天皇は橿原宮にご即位になった。この年を天皇の元年とす。」
●「応神天皇紀」より抜粋
「元年の春1月1日、皇太子は皇位につかれた。」

皇統を重視する『日本書紀』で、出生にまつわる記事が同じ、また即位日までもが同じというのは偶然ではありません。
九州「倭国」と「倭王」の存在を隠した『日本書紀』です。
そのような事実を極力、残したくなかった天智系天皇と藤原氏が妥協して、ここまでは残さざるをえなかったのですから、充分な根拠です。

One-Point ◆ 九州から畿内に進出した天皇は、架空の「神武天皇」と実在の「応神天皇(武内宿禰)」、そして「天武天皇」です。天武は7世紀の人物なので除き、そのうえで上記の共通点があれば、『日本書紀』の意図からして充分です。東征にあたって神武は「塩土の翁」、応神は「武内宿禰」の助けを受けます。また、南から攻めたことも共通しています。「応神」という諡号は、「神」に「応」えるという意味なので、初代にふさわしいのです。

《 「アメのタリシヒコ大王」 》

さて、この事実から7世紀が始まる前年、600年に『随書』「倭国」伝に記された「アメ(アマ)のタリシヒコ大王」の言葉の意味が明らかになります。
この連載の「その2:倭王「独立宣言」を書す」に書いたとおりです。
倭王「アメのタリシヒコ大王」は、隋王「高祖文帝」に次のように伝えます。

『随書』
●「倭国」伝から抜粋
「倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。
天いまだ明けざるとき、出でて政(まつりごと)を聴き、跏趺(かふ)して坐す。
日出ずればすなわち理務をとめ、わが弟に委ねんという」

「天をもって兄」「日をもって弟」とは、何をさすのでしょうか。
「天」は、『日本書紀』「神代紀」に記された実在の神々の世界です。
「日」は、その神々の世界から生じ、昇ってきたもので「弟」国です。
すなわち、九州「倭国」から神武天皇が東征して建国した国が「弟」なので畿内「大和国」を指します。
前述のとおり、畿内「大和国」は、九州「倭国王」第4子が東征して治めた国ですから「弟」国になります。
九州には、当然、兄または親族が残っています。
600年は、東征から約300年前後を経ていますが、九州「倭国」の「アメのタリシヒコ大王」は、政治(理務)を「わが弟に委ねん」、すなわち九州「倭国」を畿内「大和国」に譲ると言ったのです。
なぜ、倭国を譲るのか?
もし、九州「倭国」が兄だからと小国(弟国)畿内「大和国」を併合すれば、歴史的な経緯から畿内までもが中国の冊封体制に組み込まれてしまいます。
それを避けるために高度な政治判断をして、倭国を大和に譲り、新生「日本」への道を開いたものです。
「アメのタリシヒコ大王」なる人物は、そのような大望や国家ビジョンを描きえる傑出した人物だったことが分かります。
それゆえ、『隋書』に記されている「冠位12階」も定めています。

One-Point ◆ 『日本書紀』は「アメのタリシヒコ大王」の正体を隠しました。しかし、業績まで消すと歴史の流れと合いません。結局、「聖徳太子(厩戸皇子:うまやどのおうじ)」なる人物を創作して、その実績としています。厩戸皇子の正体は、天智系天皇や藤原氏に対して、史実を残そうとする舎人親王(とねりしんのう:天武天皇の皇子)らによって「推古天皇紀」に「暗喩」されています。

※この時期の星の配置は秀逸です。
代表して、602年10月(旧暦)前後の星の配置をご紹介しておきます。
蠍宮29度付近をトランシット(経過、運行)する土星を頂点に、牡羊宮0度の冥王星と、蟹宮24度の海王星の大三角(グランド・トライン=120度×3)が形成され、牡牛宮から双子宮の火星と天王星を尻尾とするトライン・カイト(60・60・120・120)が形成された時期です。
海王星の直前には木星もトランシットしています。つまり、ソーシャル・プラネットすべてが順行や逆行を繰り返しつつ、何らかのかたちでかかわっていた影響力の大きな時期なのです。
これらの星の配置は、日本が新たなビジョンをもって、現実の組織態勢を改革し、新しく国家を出発をしていくディレクションを意味します。
「冠位12階(603年)」や「第17条憲法-原案(604年)」が、この時期の直後に制定や施行されたのは、充分にうなづけることです。


《 アメのタリシヒコ大王の正体 》

これまで「聖徳太子」によるものとされた制度を定めた「アメのタリシヒコ大王」とは、いったい誰なのでしょうか。
推古天皇の前、崇峻天皇(即位587〜592年)が弑逆されたときをもって、「それまで」の天皇の政治はいったん終わります。
アメのタリシヒコ大王が、政治の実権を完全に握ったためです。
それゆえアメのタリシヒコ大王は、自ら決断して、600年、隋王に「倭国は大和国(畿内国)に国を譲る」と伝えました。
推古天皇以降は、アメのタリシヒコ大王が実質の天皇になります。
当然、推古天皇(即位593〜628年)に当初、政治の実権はありません。
100%のお飾りでした。
その推古天皇が崩御してのち、『日本書紀』に記される2代の天皇は創作です。
一方の『古事記』が、「推古天皇記」で終わっているのは、そのためです。
推古天皇の次の天皇、つまり『日本書紀』が天智や天武の「両親」とする「舒明天皇」や「皇極天皇」は、付け足された架空の天皇というのが史実です。
ただし、その次の孝明天皇(軽皇子)は実在です。
次の「斉明天皇」は、「皇極天皇」の重祚(再び即位すること)とされていますが、当然、重祚ではなかったか、天智か天武の姉妹の可能性があります。いずれにしても認められた天皇ではない人物です。
このことの理由は、次回、述べる予定です。
お話を戻します。
『日本書紀』は、蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇を弑逆したと記しています。
もし、それが本当なら、それを誰も咎めることができないほど、馬子は天皇以上の権力を握っていて、誰も逆らえなかったことを意味します。
もし、逆に、馬子が指示したのがウソなら、蘇我一族を悪者にするために、天智系や藤原氏が騙った作文で、崇峻天皇が弑逆された後も、馬子が政治の実権を完全に握っていたことは、納得できる事実になります。
いずれにしても、崇峻天皇以降、馬子は日本の頂点に立ち、推古天皇の御世(593〜628年)は、天皇に代わる実権を発揮していました。
最大のライバル、大連(おおむらじ)の物部本宗家を滅ぼした直後なので、当然といえば当然です。
すなわち、推古天皇の御世の607年、アメのタリシヒコ大王が、隋王に「日出ずる処の天子、日出没するところの天子に書を致す」と使者を遣わしたと『隋書』に記録されている人物の、その正体こそが、日の出の勢いにあった蘇我馬子です。

One-Point ◆ このような史実を、面白く思わない人物がいます。それが後に蘇我馬子の孫「蘇我入鹿(そがのいるか)」を殺害した中大兄(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。さらには『日本書紀』の編纂にも関与したその子どもたち、天智系天皇と藤原不比等(ふじわらふひと)です。彼らは、アメのタリシヒコ大王の存在を完全に消し去り、代わりに厩戸皇子(うまやどのおうじ)つまり聖徳太子を捏造します。アメのタリシヒコ大王の業績は、聖徳太子が行なったことにしたのです。

《 聖徳太子の正体 》

では「推古天皇紀」から、聖徳太子の正体を明かします。
こっけいというか、ユーモアがあるというか、史実を残したい舎人親王サイドが、『日本書紀』に「厩戸皇子」の正体を書いています。
「推古天皇紀」から見てみましょう。

『日本書紀』「推古天皇紀」から抜粋
1、
「夏4月10日、厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とされ、国政をすべて任せられた。」
※未成年(17〜19歳)の厩戸皇子に、国政の「すべて」を、ウソ〜!
2、
「(穴穂部間人皇女は) 馬司(うまつかさ)の所においでになったとき、厩(うまや)の戸にあたられた拍子に、難なく(厩戸皇子を)出産された。」
※そんなに簡単には生まれません。仮にお生まれになられたとしても、実在の皇子なら「馬司の所」ではなく、ちゃんとした場所で生まれたようにします。第一、「厩の戸」って…。(笑)
3、
「太子は生まれて程なくものを言われた」
※どこで言葉をおぼえたのでしょう。
4、
「成人してからは、一度に十人の訴えを聞かれても、誤まられなく、先のことまでよく見通された。」
※まるで超能力者です。

『日本書紀』が、このように非現実的なことを書き残すときは、何かメッセージを伝えようとし、隠された史実を「暗喩」しているときです。
何をメッセージしているのかというと、まず、「厩戸皇子は実在ではないよ…」ということを、非現実的な出来事を複数、記すことによって伝えています。
次に、何を「暗喩」しているのかというと、「馬司(うまつかさ)の所」や「厩(うまや)の戸」と、「ウマ」にこだわっているところです。
お分かりでしょ。
戸は、「泣き上戸」「戸籍」「1戸2戸」「封戸(ふこ)」「守戸(しゅこ=天皇陵の守護・清掃に従事した御陵番のこと)」と、「こ」とも読みます。
一般的には「と」ですが、漢音では「こ」と読むのです。
「馬司(うまつかさ)」の所に行かれたとき「厩(うまや)の戸(こ)」に当たって出産されたというのは、聖徳太子すなわち厩戸皇子は、「厩戸(うまこ)」、つまり蘇我馬子だと言いたいのです。

One-Point ◆ 舎人親王は、さすがに大らかな天武天皇の血を引くだけあって、なかなかユーモアのある文人(歌人)です。天武天皇「吉野の盟約」のときは、まだ4歳の幼児だったのですが、ある意味、最後まで「吉野の盟約」を守って、天智系天皇や藤原氏とも仲良くしています。次回は、天皇に代わって最低でも60年間、政治の実権を握った蘇我大王政権をお伝えいたします。



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