宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

★ 建国記念の日 特別編3 ★
日本の成立と「和」の象徴
― 天武が描いた統一日本 ―

HOME宝瓶宮占星学―9.雑考編 > 日本の成立と「和」の象徴

今回は、「建国記念の日」特別編として「日本の成立」をお届けいたします。
これからの時代は、「日本および日本人とは何か」が重要になるからです。
そのため日本を象徴する天皇と「和」の精神は大きな意味を持ちます。

新生「日本」建国と隠された天武の歴史

天武天皇
↑ 天武天皇:在位673-686年

●第1稿 : 2013年 2月11日アップ


※注 : 歴史研究家やマニア、「歴女」の皆様にとっては、右の本文よりも、こちら欄外「傍証」のほうが目からウロコで面白いですよ。(笑)

日本の天皇に象徴される「権威」と、政治の「権力」は本来、別物です。
日本の歴史をみたとき、紆余曲折はありますが、今日の天皇の権威は「和」の精神と「祭祀」に集約されます。
かつて、その権威と伴にある「権力」をめぐって、陰に陽に、さまざまな政争が展開された歴史があるのは事実です。

《 日本成立の真実 》

「天皇」という称号は、7世紀後半、天武天皇(大海人皇子)の時代に「日本」という国号とともに、それまでの「大王=オオキミ」という呼称にかわって定められました。
このとき、天武天皇は「天皇」の正統性を裏付けるために「歴史編纂」を命じています。
なぜなら「天皇」を日本統治すなわち「和」の象徴として正統性を裏付け、国内の統一を図り、当時の唐や新羅をはじめとする東アジア社会に対して、独立国家として「プレゼンス」を確立していく意図があったからです。
そこにいたる背景やご事情を説明すると長くなります。
また、反論や諸説があって、かえって混乱が生じます。
ただ、どんな事情があるにせよ、天智天皇を補佐した大海人皇子(後の天武天皇)の時代から、すでに天武天皇が新生「日本」の建国と整備に大きく歴史の舵を切ったのは事実です。
一般的には「律令国家体制」の整備によって天武は評価されますが、それ以上に大きな「政治決断」をしています。
誤解を恐れず、端的にいえば九州「倭」と畿内「大和」の統一です。
アメノタリシヒコ大王(おおきみ)が、607年に中国に送った「日出処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙なきや」という気概にみられるような独立日本の建国です。
ただし、この間の正しい事情は、自らが編纂を命じた『古事記』や『日本書紀』には書かれていません。
逆に、読み方次第では、天武は「悪者」と解釈できる内容になっています。
実は、それこそが天智天皇系や当時権力を握りつつあった藤原氏の狙いでした。

One-Point ◆ 『古事記』と『日本書紀』を文面どおりに読んでも、歴史の真相はみえてきません。今日、なお古代史をめぐって諸説入り乱れているのは、その証拠です。「記紀」は、天武の意図、天智系の意図、藤原氏の意図などが錯綜したパワーバランスの上に、いわば「統一大和(畿内)」の歴史として書かれているためです。


倭王、日出処の天子、国譲り

●隋の書に、「倭王は、天を兄とし、日を弟とし、日が昇ると弟に譲る」といった旨をタリシヒコが述べ、隋王は「それはおかしい」と言ったと書かれています。
推古帝の時代、600年のことです。
それから7年後、607年には、「日出処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙なきや」とタリシヒコ大王が、隋王に書を送ると、隋王は激怒したとされています。
この7年間に「倭王」から「日出処の天子」に変わっていることにご注目ください。
倭は、中国の冊封体制から離れ、「弟」に譲る方向で、日本独自の国づくりに向かいはじめているのです。
事実、603年に「冠位十二階」、翌604年には「十七条憲法」と、次々に制定し、和による国づくりを進めています。
私見では、この約60年後、斉明天皇の崩御661年から、天智が正式に即位した668年の間に、国家防衛を図って天智と天武の間に盟約が結ばれ、「統一日本」が具現化したとみています。
天智の和風諡号が「天命開別尊(あまつみことさきわけのみこと)」と、天すなわち国を開いた大王となっていることからも、それが推測できます。

《 隠された古代の真実 》

ご存じの方には退屈でしょうが、必要上ご紹介しておきますのでご了承ください。
この時代、天智→(弘文)→天武→持統→文武→元明→元正…と天皇は続きます。
このとき、天智の「弟」とされた天武(当時は大海人皇子)には、4人もの天智の娘が嫁いでいます。
「なぜ弟に?」と誰もが首をかしげ、兄弟ではなく異父兄弟ではないか、いや天武のほうが年上だなど推測されています。
答えは左下の欄外に書いておきました。
天武は草壁皇子を後継に立て、崩御の間際、皇后と草壁皇子に後を委ねました。
しかし、草壁皇子は皇位に就くことなく、母(皇后)であり天智の娘が「持統天皇」として立ちます。
この持統天皇の和風諡号が「高天原広野姫天皇」、あの「高天原」なのです。
結局、天武の皇子は誰一人皇位に就くことができず、草壁皇子(すでに薨去)と天智の娘(後の元明天皇)の間に生まれた文武天皇が持統の後を継ぎます。
これは「記紀」神話の中で、高天原で皇祖「天照大御神」が息子ではなく孫のニニギノミコトに地上の支配権を与えたエピソードによって「正当化」されています。
正当化といえば聞こえはいいのですが、天武系を排除し、天智の系統が正しいとするための作文です。
加えて「記紀」からは、天武の業績はかき消され、天武に連なる過去の歴史も書き換えられました。
これらは天智系とネンゴロになり、権力を握りつつあった藤原(中臣)氏の意図でもあります。
なぜなら、正しい過去を正直に書けば、古来から天皇(大王)と共にあった大伴氏や物部氏など大連(おおむらじ)や、蘇我氏など大臣(おおおみ)の正当性が世々歴史に残されていくからです。
それでは中臣でしかなかった藤原氏の権力の正当性が失われます。
結果、大筋の流れはともかく、大半が「作文」され、天智系の正統性と、藤原不比等の父鎌足(中臣鎌足)の業績が誇張されました。
つまり、天武系の歴史は、天智に連なる「万世一系」として統合されたのです。
もっとも、統合による「天皇」の正統性は、天武の意図でもありました。
2人は同じ祖先をルーツとする遠い姻戚か兄弟かはともかく、天武の妃「額田王」が天智に嫁ぎ、天智の娘が4人も天武に嫁いで、姻戚関係と契りを結んでいます。
方向性は間違っていません。
ただ、肝心の内実、すなわち天武系の歴史は隠され見えなくなってしまいました。

One-Point ◆ かといって『古事記』や『日本書紀』を頭から否定すべきでないのは、「真実」の一部が暗号のように書き込まれているからです。そのヒントは、九州「倭」(天武系)と畿内「大和」(天智系)の統一によって、新生「日本」が7世紀に誕生していることです。それを畿内「大和」の歴史のように著わしたのが「記紀」です。言い方を変えれば、新生統一国家「日本」に統合されています。


天智と天武の国を思う契り

●権力者が歴史の真実を隠そうとしても、正しい歴史を残そうとする記録者はいます。
『古事記』や『日本書紀』も例外ではありません。
「記紀」編纂とともに定められた、歴代天皇の名称は、その代表例です。
誰でも気づくのは、編纂当時の「持統」「元明」「元正」の天智系天皇名です。
これは正統を主張したもので、そうせざるをえない事情ゆえです。
では、なぜ「天智」「天武」は、「天皇」であるにもかかわらず、2代続けて「天」がつくのでしょうか。
初めて「天皇」と号したのは天武です。
天智は従来どおり大王だったので、諡号も「尊」です。
もし、どちらかが創始者であれば、「海王星入宮と日本の霊性2:朝日と山桜花」に書いたように「神」がつきます。
この2人に「天」がつくのは、「ともに天を戴かず」とあるように、別の天(国)を戴く王だったことを象わします。
その統一にあたり、先に天智が大王に就き、次に天武に譲る約束が結ばれ、天武は「大海人皇子」になります。
そのため天智は、「弟」とされる天武に4人もの娘を嫁がせて、堅く姻戚と絆を図ります。
また天武も、妃(額田王)を天智に嫁がせて、お互いに契りを結びます。
それゆえ天武の御世となった後も、天武は、自分と天智の皇子たちを集め、かつて天智と天武が結んだように「共に母を同じにする兄弟」だと「吉野の盟約」を結ばせ、末永く和して日本を支えていくことを諭しています。

《 海王星と天王星の三分(120度) 》

さて、「日本」と「天皇」の礎を築いた天武の時代を、占星学から解説しておきます。
日本は何座宮?」などに書いたように、日本の民族性は海王星に共鳴する「魚宮」で、日本の国体は天王星に共鳴する「水瓶宮」です。
占星術に詳しくない方はごめんなさい。
「天皇」は国体を象徴しますが、実体的には「魚宮」と「水瓶宮」の両方を体現した存在になっています。
ここに日本の歴史的使命が読みとれるのですが、詳細は省きます。
天武の御世は、673年〜686年です。
天武が即位したとき、発見以前ですが、海王星は射手宮28度、天王星は土星と合(0度)で、牡羊宮7度でした。
これらの星の動きから、9か月ほど前まで天武は「危地」にあり、それを脱してから皇位に就いたことが分かります。
在位6年の678年、海王星は山羊宮7度に進み、天王星も牡牛宮1度に進むと、ついに三分(トライン=120度)をとりはじめます。
「魚宮」の民族性と「水瓶宮」の国体が共鳴して、「天皇」を象徴し、その天皇による政治が実際に「スタート」したことが、星の配置から読みとれます。
これ以降、海王星と天王星は、互いに順行と逆行を繰り返し、天武崩御の686年まで、これでもか、これでもか、というくらい、何度も何度も三分(120度)を繰り返し、「天皇」と「日本」の再スタートをうながし続けています。
やがて三分(120度)を形成する間隔が空きはじめたころ、天武は崩御され、完全に解消されたのは翌687年のことです。
天武の御世、実に9年間もの長期にわたり、海王星と天王星は三分(120度)をとり続け、日本国「天皇」の確立と、日本の「再出発(=国づくり)」のディレクションを投げかけていたことになります。

One-Point ◆ 分かりやすくいえば、海王星は「祭祀」、天王星は「和」です。天皇の二大原理を象わします。「権力者」と勘違いされることもある天皇ですが、実際は「和」の象徴であり、「祭祀者」なのです。「天皇」が即位したときの儀式「大嘗祭」を最初に行なったのもこのときで、天武天皇がはじめています。やはり天武は「只者」ではありません。


「神武」のモデルは応神天皇

●次に、「武」がつく古代の天皇は数人います。
初代、神武をはじめ、武烈、天武、文武、聖武、桓武などです。
だいたいは九州系(天武系)が多いようです。
なぜ「武」が九州なのかといえば、鉄剣の産地が北部九州(特に福岡)が主だからです。
また、初代「神武天皇」以外に、唯一、頭に「神」がつくのは「神功皇后」です。
これは物語上の開祖を意味し、いずれも九州にかかわるエピソードを持つことから、神功の子、実在の第15代「応神天皇」が「神武」のモデルのようです。
今日、建国記念の日の2月11日は、神武が即位した紀元前660年旧暦1月1日を新暦に換算した日ですが、応神の即位日も、旧暦1月1日なのです。
「記紀」が神武の出自を九州とすること、また征服に必要な「鉄剣」の産地で軍事的に優位にあったこと、さらに北部九州にあった倭の女王・卑弥呼が「和」の象徴であり「祭祀」を行なったことなどから、「天皇」と北部九州の関係は切り離せません。
ちなみに、かつての「倭」は、日本に統合されています。
倭と日本は、同じ「和」の象徴を戴きますが、同じ国家とは異なります。

《 天皇家の危機と星の配置 》

ついでに、天皇家の危機を占星学からご紹介しておきます。
昨年2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」は、視聴率こそ芳しくなかったものの、近年まれに見る傑作で、文化レベルが高く、ドラマとしても初回の「伏線」が最終回に生きるなど骨太の構成でした。
「平清盛」の生涯がテーマなので、その栄枯盛衰に焦点があてられ、「天皇」が対比として描かれたのは仕方のないことでしょう。
そこに伴う「権力」の興亡を描いて見事でしたが、「武士の世をつくる」として「天皇(朝廷)」から「武士(幕府)」への政権交代を描くなら、崇徳天皇の「怨霊伝説」にも期待しましたが、それはスルーされたようです。
古代日本においては、「鬼」や「怨霊」はリアリティーを持った存在で、政治にも実際に影響を与えた事実がある以上、スルーすべきではなかったかもしれません。
いずれにしてもこの時代から明治維新まで、700年近く、天皇の「権威」は落ち、武家「政権」が続きました。
天皇の「権威」が失われるキッカケとなったこの時代、1185年前後と同様の星の配置が、実は160余年ほど前にもありました。
藤原道長が、一条天皇に長女彰子を入内させ、三条天皇に次女妍子、その三条を退位に追い込むと、彰子が生んだ孫の幼帝、後一条天皇を即位させ、ついに摂政(天皇に代わって政務を行なう実質の権力者)になった1016年前後のことです。
この2年後、後一条天皇に三女威子を入内させると、その祝いの宴で有名な「望月の歌」を詠みます。
「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」
天皇に代わって藤原氏が完全に実権を握った時代でした。
それから164年後の1180年〜1187年に再び件の星の配置が現われます。
それが平清盛の晩年から、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時代です。
1180年には、かつての藤原氏と同じように、平清盛の娘徳子が生んだ幼帝、安徳天皇が即位します。
「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」
現代語訳すれば「平家にあらずんば人にあらず」という平時貞のこの言葉は、もう少し前に発されたものです。
翌1181年、清盛は病没し、平家の滅亡がはじまります。
平家を滅ぼし、源頼朝が鎌倉幕府を開いたのは1185年。
頼朝は、平家と違って、天皇(朝廷)とは一線を画し、日本の政権運営を完全に武士の手に移しました。
それが日本にとって幸いだったのは、永世中立国スイスのように「全国武装国家日本」が武士や農民によってつくられ、結果、諸外国からの侵略や植民地化を防止できたことです。
このように、天皇家が危機に陥った時代は、いずれも水瓶宮に海王星が位置し、牡牛宮を天王星がトランシット(運行)して、6年間にもわたる矩(スクエア=90度)が形成された時期です。
この矩(90度)は、過去に3回形成されましたが、最後は短期間ながら、天皇家が二つに分裂した南北朝時代の中頃、1353年前後のことです。

One-Point ◆ 西洋占星術を知っている人なら「海王星と天王星の矩(90度)は他にも生じているよ」と言うでしょう。残念ながら「矩(90度)=凶」という単純な図式による解釈はしません。『入門講座』のご購入の皆様や「レクチャールーム」をご高覧の方なら、上記配置の矩(90度)が、魚宮や水瓶宮を体現した「天皇」にとって、他の矩(90度)とは異なる多大な影響をもたらすものであることがご理解できるでしょう。


天皇(大王)の本当の出身地

●「記紀」には、天皇が日本各地を征服し、治めていったエピソードが数多く記されています。
大和(畿内)は「神武」によって、真っ先に征服された地域です。
高天原や、その大和から、全国を征服していくストーリー展開なのはご存じのとおりです。
たとえば、スサノオの出雲征服や、ヤマトタケルの熊襲退治などは有名なエピソードです。
九州中部や九州南部も征伐されたとされる地域で、例外ではありません。
しかし、古代日本の最重要地でありながら、唯一、征服のエピソードが記されない地域があります。
それが北部九州(主に福岡県域)です。
なぜかといえば、天皇家ゆかりの「本当の出身地域」なので「征伐した」とは誰も書けません。
北部九州は、神功皇后が三韓征伐や九州征伐の拠点とした地域です。
その子、応神天皇の出生地域でもあります。
ただし、天皇家の出身地と書かなかったのは、かつて「倭」があった地域なので、倭=日本と誤解される可能性があることが一つ。
また、地域を特定すると、その地域に優位性が生まれ、国家統一の妨げになるという配慮から、「記紀」では敢えて地名を具体的に記さず、逆に「政治的空白地域」で、「祭祀地」高千穂にしたようです。

《 天皇と日本および日本人 》

さて、「女王卑弥呼と神武天皇の建国」にも書いたとおり、日本統治のプロトタイプ(原型)は、3世紀の倭の女王・卑弥呼にはじまります。
北部九州にあった「倭」の時代で、女王・卑弥呼を共立して「和」を図り、平和的連合国家(女王国)の象徴とします。
それが卑弥呼一代のお話なら、日本人の心に残らなかったと思いますが、同じような出来事は台与においても行なわれ、二回続きます。
ここに連合国家統治の先例、すなわち「和」の原体験を日本人が持つに至ります。
統一国家「日本」が誕生した7世紀も同様です。
天武系の歴史が消された『日本書紀』の記述なので、いつ誰なのかマユツバな部分もありますが、604年、聖徳太子とされる人物が、「和をもって貴しとなす、逆らうことなきを旨とせよ」と『十七条憲法』の第一条に定めます。
天智・天武においても「和」が図られ、天武の御世に再び皇子らが「吉野の盟約」を結びます。
日本国の統治、例えば女王・卑弥呼や「大王」また「天皇」は、「権力」よりも「和」の象徴であり、宗教的「祭祀者」というところに最大の特徴があります。
ただし、このサイトをご高覧の皆様ならお分かりのように、「双魚宮時代」というのは「支配・被支配」など「対立二元論」を歴史のパラダイムとする時代でした。
「天皇」や「日本」も例外ではありません。
「和」の象徴である「天皇」といえども、自身を含めて、周辺の権力をめぐる政争に巻き込まれざるをえませんでした。
しかし、1989年「宝瓶宮時代のビッグバン」が起こります。
「対立二元論」から「共鳴関係論」へと歴史のパラダイムが変わり、「宝瓶宮時代」が始まります。
奇しくもというか図らずしも、世界的権力闘争ともいうべき「第2次世界大戦」に巻き込まれた昭和天皇が崩御されたのも、この1989年、1月7日のことです。
新たに即位され宝瓶宮時代に生きる今上天皇は、もはや「権力」をめぐる戦いから解き放たれ、名実ともに「和」の象徴として、国民と世界の平和を願い、大自然に感謝する「祭祀者」として、今後は世界に向けて漸次、存在感を高めていくことでしょう。

One-Point ◆ 天皇の人気と尊敬は、例外的な隣国を除いて、海外諸国においては高いものがあります。「天皇は日本国と日本国民統合の象徴」と憲法で規定する日本および日本人は、今後の宝瓶宮時代においては、天皇同様に精神的支柱として、いずれ重要な役割りを果たさざるをえません。それを体現できる政府、国民、企業になっているかは、世界に先駆けて、一人ひとりに問われるところでしょう。



【↑上に戻る】

※当ページの内容は著作権法により保護されております。無断使用はご容赦お願い申し上げます。

Copyright(C) 2005-2013 Aquariun Astrology - Seiji Mitoma All rights reserved.