宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学と解く「日本成立史」
その3:『日本書紀』かく語りき
− 歴史編纂の意図とノウハウ −

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「兄弟」による万世一系演出と史実を「暗喩」した記事手法

↑ 日本書紀(兼永本)-北野天満宮蔵
  重要文化財-鎌倉時代の写本。

●第1稿 : 2013年 3月20日アップ




《お断り》
※ここに書いた内容は、新たな歴史の発見や、リーディングによって、断続的に修正することがあります。

《表記の統一》
※時代にかかわらず「大王」や「王子」は、基本『日本書紀』に準じて「天皇」や「皇子」に表記を統一しています。

占星学と解く「日本成立史」の3回めです。
「日本成立史」の意外なウラの事実を、宝瓶宮占星学を交えてお届けいたします。
今回は、『日本書紀』の編集手法です。
古代日本史を解明する重要なテキスト、虚実入り混じった『日本書記』の記述から、事実や「真相」を見抜くポイントを、いくつかの事例を交えてご紹介いたします。

《 表記「中大兄皇子」 》

『日本書紀』の「真相」を見抜く最大のポイントは、書かれた時代背景を明らかにすることです。
詳しくは、先回までの記事、「その1:新生日本と天武天皇」と「その2:倭王「独立宣言」を書す」をご高覧ください。
そのような時代背景が分かると、そこから、1、何のために、2、誰が、3、どのような意図と方法で、4、誰に対して、編纂したのかが見えてきます。
小難しいお話はおいおい述べるとして、まずは次の事実をご覧ください。

『日本書記』の表記にまつわる事実です。
「天武天皇紀」の冒頭には「幼児には大海人皇子(おおあまのおうじ)といった」と書かれています。
また「孝明天皇紀」にも、「大海人皇子」という表記が数か所出てきます。
当たり前ですが、大海人皇子は『日本書紀』が認める「皇子」、つまり天皇の子なのです。
では、ここで簡単なご質問です。

【Q1】 『日本書記』の中に、後の天智(てんじ)天皇である「中大兄皇子」という表記は、何回出てくるでしょうか。

【A1】
正解は、「1か所も出てこない」です。

びっくりしたでしょ。
天智天皇の従兄弟とされる「有間皇子」、兄弟とされる「古人大兄皇子」や「蚊屋皇子」また「漢皇子」らには、ちゃんと「皇子」として表記されています。
ところが、「中大兄」や「皇太子」という表記はあっても、「中大兄皇子」という表記は、本人の「天智天皇紀」にさえ1度も出てこないのです。
さすがに『日本書記』の編纂者も、「中大兄」を「皇子」と表記してしまうことは避けたようです。
ちなみに、舒明天皇の皇子として記されている「葛城皇子」や「大海皇子」は、表記が異なります。
「史実」を残そうとする『日本書紀』の編纂者が、ちゃんと分けて表記しているのに、勝手に「中大兄皇子」と決め付けてしまうと、隠された「史実」が見えなくなります。
実は、そうせざるをえない事情があったのです。

One-Point ◆ 『日本書記』を現代語訳した学者さんらは、「葛城皇子」の下に(カッコ)をつけて(中大兄皇子)としたり、単に「皇太子」や、「開別皇子」としかないのに、(中大兄皇子)と付け足したりします。しかし、『日本書記』のどこにも「中大兄皇子」という表記はないのです。ちなみに、「斉明天皇紀」に、「二男一女を生まれた」とありますが、これもご親切に(天智天皇・間人皇女・天武天皇)と付け足していますが、『日本書紀』は、そこまで書いてはいないのです。


●伊勢神宮の正式名称「神宮」

「伊勢神宮」は、正式には単に「神宮」とだけいいます。
昨年2012年の大河ドラマ「平清盛」にも出てきた佐藤義清(さとう・のりきよ)こと西行が、「神宮」を参拝したとき詠んだ次の歌は有名です。

何事のおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる

「魚宮」の民族性を持つ日本人の霊性(精神性)によって詠まれています。
※1674年(延宝2年)『西行上人集』に収録。

《 泉涌寺と伊勢神宮 》

ついでに、次の事実もお知りおきください。
京都に天智天皇の菩提寺があるそうです。
泉涌寺(せんにゅうじ)がそれで、歴代天皇の位牌が置かれています。
ただし、天武天皇や持統天皇など、天武系に連なる天皇は祭られていません。
また、両親であるはずの舒明天皇や皇極(斉明)天皇はもちろん、それ以前の天皇も祭られていないのです。
つまり、天智天皇を「皇祖」とする菩提寺なのです。
後年、朝廷の権力を完全に握った藤原氏が泉涌寺に祭ったものです。
天智の和風諡号は、「天命開別(あめのみことひらかすわけ)」というように、まさに「別」に「開」いているのです。
これは、建国記念の日 特別編3「日本の成立と「和」の象徴」の欄外にも書いたように、統一日本が始まったことも意味しますが、持統天皇の「持統」という諡号(しごう)と同じように、ダブル・ミーニング(2つの意味)を持たせることが学識でもありますし、また天武サイドと天智・藤原サイドの両方を納得させられるためです。
さらに、逆の事実も併せてご紹介いたします。
壬申の乱の勝利を受けて、天武天皇は「伊勢神宮」を新たに建造します。
すべて完成したのは后の持統天皇の御世になってからですが、持統天皇が周囲の反対を押し切って参拝したのを最後に、その後の天皇は、約1,000年もの間、誰も参拝していないのです。
ご存じのように、伊勢神宮は、内宮に「天照大御神」、外宮に「豊受大御神」をお祀りします。
日本の原点、本流となる人物(神々)です。
その神々を、天智系の天皇や藤原氏が参拝しなかったということは、日本の本流を忌避していることを意味します。
これは、占星学的にみても、すべてを受け入れる「魚宮」の民族性を持つ日本人らしくないのです。
ただ、泉涌寺を知らない人はいても、伊勢神宮を知らない日本人はいません。
つまり、江戸時代以前から続く「お伊勢参り」を見ても分かるように、日本人なら天智天皇ではなく、天武天皇が正統であることを何気に感じていたのです。

One-Point ◆ 実は、明治5年になって、明治天皇がはじめて伊勢神宮に参拝しています。そういった意味では、逆に、明治天皇から本来の「正統」に戻ったといえます。明治天皇は、即位の前日に日本の大怨霊「崇徳天皇」の御霊を都にお迎えし、解怨していますし、天皇といえども拝謁できない三種の神器の一つ「八咫鏡(やたのかがみ)」を伊勢神宮で天覧になられています。


●天智天皇と天武天皇の系譜

《 出版物の三要素 》

さて、以上のような事実があることをお知りおきいただいて、『日本書記』の見方をお届けいたします。
現代でもそうですが、ちゃんとした出版物には、必ず次の三つの要素があります。

1、「編集方針」
編集出版を行なう根本の「意図」と「目的」です。

2、「記事内容」
次に、「意図」と「目的」を達成するための記事「コンテンツ」で、これはどのように「構成」して、どう「組み立て」ていくかにかかわります。

3、「表現方法」
最後に、どの「文体」がふさわしいのか、また「表記の統一」を図ります。
昨今であれば、ビジュアル・デザインも重要ですが、『日本書紀』には必要ありません。

娯楽やお遊びの出版物ならともかく、『日本書記』は、国家1,000年の計を見据えて新生日本を建国していく一種の「プロパガンダ」の役割を持ちます。
上記の三要素は必須です。
つまり、どのような「意図」と「目的」があって、どんな手段をもって「構成」や「組み立て」を行い、さらには「文体」や「表記の統一」を、どのように図っているか、それらが分かれば、『日本書紀』の「真実の姿」が見えてくるわけです。

One-Point ◆ まがりなりにも、雑誌の編集長や出版編集に携わった経験がありますので、上述のことは少々なら分かります。あとは当時の時代背景や登場人物といった歴史を知れば、最後は占星学による登場人物のプロファイリングと、宝瓶宮占星学の「星のディレクション」によって、そこそこには解き明かしていけます。

《 『日本書紀』編纂の意図 》

では実際に、『日本書紀』の「編集方針」すなわち歴史編纂の「意図」と「目的」を見てみましょう。
歴史編纂を命じた天武天皇の意図は、九州「倭国」の畿内「大和国」への国譲り、すなわち挙国一致による「統一日本」をまとめる「和」の象徴としての天皇の正統性を歴史的に示すことで、国内の「和(一致)」と、海外への日本の「独立」と「主権」を示すことでした。
しかし、天武天皇の崩御後、そこに天智系天皇の意図と藤原氏(中臣氏)の野心が加わり、複雑化します。
天智系天皇と藤原氏の意図は、九州「倭国」を完全に消し去り、畿内「大和」の一国史にして自らの正当を図ることです。
加えて、藤原氏の野心は、「中臣」の立場を古来からの由緒と功績があるものに捏造し、権力を握る正当性を図ることです。
ただし、『日本書紀』の編纂は、学者も交えた多くの立場の人々のプロジェクト・チームによって行なわれました。
そのため「神代紀」は、特に「ある書(一書)にいわく」というように、複数の立場からの主張が掲載され、「史実」は後世に委ねるような構成になっています。
もっとも基本的には、天武天皇の皇子でチーム・リーダーの舎人親王(とねりしんのう)と、天智系サイドの藤原不比等(ふじわらのふひと)との合議と、お互いに面子を潰さない「妥協」によって進められています。
当然、舎人親王サイドは、なるべく「史実」を残そうとし、天智系藤原氏サイドは、自分たちに正当性があるように捏造しようとします。
結果、それぞれが分担して編纂執筆をしたものです。
例えば、天智系のメンバーが編纂した「舒明天皇紀」や「皇極天皇紀」と「斉明天皇紀」また「天智天皇紀」には、1か所も「大海人皇子」という表記が出てきません。
ハナから天武天皇を忌避しているのです。
天武天皇が、本当に舒明と皇極(斉明)両天皇を父母としていたのなら、ありえません。
一方、皇極の後に即位した「孝明天皇紀」そして「天武天皇紀(上下)」には、ちゃんと「大海人皇子」の表記が出てきます。
こちらの「天皇紀」は、史実に基づいて描かれているため、文章もイキイキとした臨場感があります。

One-Point ◆ 一つ先に書いておけば、九州「倭国」や、出雲を中心とした「本州国」の歴史は、「神代紀(上下)」に描かれています。すべてが架空の「神話」とは違います。例えば、「天照大神」と「素戔嗚尊(すさのお)」のお話だったり、「山幸彦」と「海幸彦」で知られるエピソードもそうです。すべてが創作神話であれば、わざわざ「ある書にいわく」と数多くの異説を残す必要はないのです。「神代紀」の謎解きも、いずれこの連載でご紹介いたします。


●「カゴサカ王」で「皇子」ではない

『日本書紀』の表記は、上の画像のとおり「カゴサカ王」です。
決して、「カゴサカ皇子(かごさかのみこ)」や「忍熊皇子」という表記ではないことにご注目ください。
つまり、本当に応神天皇(誉田別皇子=ほむたわけのおうじ)の異母兄、すなわち仲哀天皇の子なら、二人とも「皇子」と正しく表記するはずです。
それを「○○王」と正しく表記したのは、史実を残そうとする編纂者が「本当の兄弟ではない」ことを教えようとしているためです。
このような観点から、これまで通説とされてきた先入観を捨てて、逐一『日本書紀』を見直していくと、多くの史実につながる事実や、ヒントが明らかになるはずです

《 『日本書紀』の手法その1 》

では、『日本書紀』は、編集出版の「意図」と「目的」を達成するために、どのように組み立てられ、また、どう表現されているのでしょうか。
最大のポイントは、「皇統」を「万世一系」に演出(創作)して、天皇の古代からの由緒と正統性を示すことです。
「魚宮」の民族性を持つ日本人は、正統な権威を持つ「お上(かみ=神)」には素直に従います。
敬い、認めるために、「和」の象徴として「天皇」の存在は重要です。
それは、建国記念の日 特別編1「女王卑弥呼と神武天皇の建国」にも書いたように、「祭祀」を行なう卑弥呼を「和」の象徴として共立することによって、最初の北部九州連合国家、第一「倭国」を形成し、国の在り方(国体)の嚆矢(こうし)としたように、「魚宮」の民族性に加えて、「水瓶宮」を国体とする日本人にとって、心から納得する方法だったのです。
次に、『日本書紀』の2番めの意図は、「国家」においては、九州「倭国」の存在や、先に畿内「大和国」を治めていた出雲をはじめとする「本州国」の存在を完全に消し去って、最初から畿内「大和国」による日本統一史にしてしまうことです。
これらは、『日本書紀』に書かれた内実は結果的に異なりましたが、「和(統一)」と「日本の独立」と「天皇の正統性」を歴史的記述によって図ろうとした天武天皇の「編纂方針」には反していないために、舎人親王も了承し、九州「倭国」は「神代紀」に暗喩して残すことで合意したものです。
さて、ここで再びご質問です。

【Q2】
実際には、別々に天(国)を戴く二人の「大王(天皇)」が存在しました。
これをどのようにすれば、「万世一系」にして、古来から続く「皇統」として正統性を演出できるでしょうか。

【A2の1】
答えは、二人の大王(天皇)を「兄弟」にしてしまうことです。

【A2の2】
もう一つは、実在しない人物を創作して、皇統をつなげてしまうことです。

後者は、例えば「日本武尊(やまとたけるのみこと)」や「聖徳太子」を創作して、別の人物の業績を奪い、畿内「大和国」の業績に差し替えるなど、天智系天皇や藤原氏の価値を下げないためにも流用されています。

これらからも、皇子ではなかった中大兄(天智天皇)と、実際に皇子だった大海人皇子(天武天皇)を兄弟としたのは、『日本書紀』における天智・藤原サイドの作文で、当然、天智天皇と天武天皇は兄弟ではなかったことが明確に見えてきます。
もう一つ、有名な事例を挙げておきます。
架空の神功(じんぐう)皇后と、その子、誉田別皇子(ほむたわけのみこ=応神天皇)のケースもそうです。
九州で生まれた応神天皇の東征にあたって、まず【A2の2】の手法で、架空の「仲哀(ちゅうあい)天皇」と「神功皇后」を創作します。
次に、【A2の1】の手法で、誉田別皇子(応神天皇)の異母兄で、畿内の「カゴサカ王(漢字は左の欄外)」と「忍熊(おしくま)王」が、誉田別皇子を殺そうと企てていることにします。
そのうえで、異母兄の二人を討てば、すでに父、架空の仲哀天皇は、神の祟りにあって福岡の香椎の宮で崩御していますので、応神天皇(誉田別皇子)は、もとからの畿内「大和国」の正統な天皇の皇統で、「万世一系」となり、同時に畿内「大和国」の一国史にできます。
このお話が「ヘン」だと気づくべきなのは、神々の子孫である天皇「仲哀」が、神の祟りに遭って死んでいるということです。
天皇の権威からして矛盾したお話で、後述するように「これは史実と違うよ」と、『日本書紀』の良識的な編纂メンバーが示唆しているものです。

One-Point ◆ もし、天武天皇が生きていたら、このような創作はしません。なぜなら、九州「倭国」はもちろん、畿内「大和国」も、その前に国づくりをした出雲「本州国」も、ルーツは北部九州のヤマ族とウミ族(海人族)にあったからです。7世紀の天武天皇(大海人皇子)は、ルーツに戻ったために歴史編纂を命じたのです。天武天皇は、事実を記せば「万世一系」となる正統な立場でした。これについては、後日ご説明いたします。

《 『日本書紀』の手法その2 》

それ以外の『日本書紀』の手法の一例を挙げて、このページを終わります。

1、複数の呼称をつける
消したい人物や、また実在せず創作した人物は、なるべく複数の名称をつけて正体を分かりにくくする。つまりは、あやしく疑われるようにする。
[例]
大国主命、聖徳太子、など。

2、出生年は不明にする
出自や素性が割れると困る人物や、創作した人物、また名前を差し替えた人物は、重要人物にもかかわらず、出生年を特定されないようにする。
これは、逆にいえば『日本書紀』の良心を示すもので、史実を曲げたウソは極力、書かないということを意味します。
もしウソの年齢を書いてしまうと、史実を推理できなくなってしまいます。
[例]
崇峻天皇、天武天皇、押坂彦人大兄皇子、など。

3、「フォーマット」にそわせない。
各天皇紀には、「フォーマット」があります。
天皇の「出自」に始まり、いつ、どこで、だれが、何を、といった記事内容つまり「出来事」を記して、最後に「崩御」の記事で終わるというものです。
それを、例えば、崩御を記さずに終わり、次の天皇紀に前天皇の崩御を記すというのは「異常」で、これによって隠された重要な「史実」を示唆する手法です。
[例]
雄略天皇紀、顕宗天皇紀、(敏達天皇紀)など。

要は、「表記の統一」や「フォーマット」から外れているもの、また「常識」から考えておかしな「出来事」の記事には、書けなかった「史実」が示唆されています。
なぜなら、天武天皇の意図すなわち「編集方針」を大義名分に、自らの立場を失わないように捏造を行なおうとする天智系天皇と藤原氏サイド、つまりは当時の権力者の立場を配慮しつつ、そのうえで、舎人親王は、同時に、隠された史実を何とか残そうとしたからです。
複数の伝承から「表記の統一」が本当にできなかった人物はともかく、天皇や皇太子クラスの人物で、1、多くの名前が併記されている、2、年齢(年次)が特定できない、3、「フォーマット」や「常識」から大きく外れている、何かおかしい記事には、隠された「秘密」があります。
それは逆に、何かの「史実」を示唆しているのです。
そういったことが、上記の「出版物の三要素」などから、よく考えれば分かります。
そこに日本成立史の「事実」が隠されているのです。

One-Point ◆ 史実を糊塗して騙(かた)ろうとする天智系天皇・藤原氏サイドのメンバーに対し、舎人親王をはじめ史実を正しく残そうとするメンバーがいました。『日本書紀』は、それらの妥協の「賜物」です。繊細な日本人の感覚で、工夫を凝らして史実を「暗喩」した箇所が実に多くあります。次回は、『日本書紀』の「暗喩」を解き明かしつつ、日本成立史の史実をご紹介してまいります。



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