宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
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引き続き、「宝瓶宮時代のライフスタイル」をお届けいたします。
セルフ・ブランディングのフィールドは広いので、今回は大前提となるお話です。
具体的な応用展開は皆様一人ひとりの個性に応じた千状万態になります。
●第1稿 : 2008年08月19日
●改訂稿 : 2022年 3月24日
●宝瓶宮時代のビッグバン(1989-1990)については、お手数ですが、次のページなどをご一読ください。
「近未来予測=基礎編」(一般向け)
「宝瓶宮時代の根拠」(占星学研究)
「宝瓶宮時代と占星学」(占星学研究)
宝瓶宮時代は、自由に基づくライフスタイルが必要なことを前の「宝瓶宮時代とライフスタイル」で述べました。
その際に、自由をどうとらえるかは重要です。
ここでいう自由は、新しい宝瓶宮時代の精神で理解しなければなりません。
フランス革命当時のまま、双魚宮時代の「対立二元論」で自由・平等・博愛をとらえると、間違った解釈になってしまいます。
「自由と平等は矛盾する」などと、浅薄な理解になるのです。
フランス革命当時の社会に自由・平等・博愛はありませんでした。
それゆえ、絶対王政、すなわち専制君主(ワンマン)という権力から、人々は「自由」を求めました。
聖職者や貴族ら特権階級のみの優遇から、「平等」を求めました。
特定の人々への偏重から、「博愛」を求めました。
自由・平等・博愛がなかったからこそ、市民が求めて革命を起こしたのです。
そういった一度も手にしたことがないものを、双魚宮時代のまま「対立二元論」で解釈すると間違ってしまいます。
ちなみに、「対立二元論」というのは、いわば、異なる二者は対立(敵対)して存在している、といった考えです。
専制君主と対立した「自由」。
特権階級と対立した「平等」。
特定の人々と対立した「博愛」…。
誰かに敵対する「自由」、誰かに敵対する「平等」、誰かに敵対する「博愛」は…。
そんなもの、真の自由・平等・博愛ではありません。
One-Point ◆ 当然ですよね。「対立二元論」自体が、対立・敵対という矛盾を含んでいるのです。その考えによって自由・平等・博愛を解釈すれば、自由・平等・博愛は矛盾した概念になるのは当たり前です。
●双魚宮時代の価値観が「対立二元論」というのは、西洋占星術でも言われている魚宮(双魚宮)の象意から導き出されたものです。
しかし、真の自由・平等・博愛の概念は、通常の西洋占星術の解釈からは、見えにくいのです。
実は、対立二元論の象意は、魚宮のマークにも象わされています。
星座のうお座が「尻尾をつながれた逆方向を向いた二匹の魚」に模されていますが、偶然か必然か、同じように魚宮のシンボルマークは、相反する二者を象わしています。
※注)私見でいえば、星座よりもマーク(サイン=象意)が先だと考えています。星座やギリシャ神話は、あとから結び付けられたものか、それに近いものです。
双魚宮時代は、「対立二元論」による価値観によって、人類文化を築いてこざるをえませんでした。
「対立二元論」は双魚宮時代には必要でしたが、時代が進んで宝瓶宮時代になると、逆に阻害要因になっていくという歴史的事実をお伝えしているのです。
ふだんの生活をみても、過去に有用だったものが、現在や未来において役に立たなくなったり、逆に弊害となっていくのはよくあるお話です。
「対立二元論」自体は誤りでも、人類にとって必要なプロセスだったので、必ずしも歴史においては間違いとはいえません。
なぜなら、双魚宮時代における「対立二元論」の代表である“神と悪魔”“善と悪”“天国と地獄”(極楽と浄土)といった教えを持つ世界宗教(キリスト教、仏教など)の倫理規範によって、双魚宮時代の人類の意識レベル(モラル)は格段に向上してきたからです。
それゆえ、逆に、聖職者や専制君主といった誰かが、もはや宗教的権威や世俗的権力によって強制(支配)しなくても、一人ひとり自分の力によって社会規範を守れる意識や自覚が芽生えてきたのです。
その芽生えが根底にあってこそ市民らは自立を志し、自由・平等・博愛を求め、支配体制に反発し、ついに革命を起こしました。
分かりますよね?
その意識や自覚の芽生えこそ、新しい宝瓶宮時代の黎明(れいめい)です。
時代は、そのように論理構造をもって移り変わっていきます。
西洋占星術を本来の占星学によって正しく理解することによって、時代の仕組みが見えてまいります。
フランス革命が勃発した1789年から、ちょうど200年後の1989年に「宝瓶宮時代のビッグバン」は起こりました。
宝瓶宮時代の始まりです。
人々は、ついに、誰の力によらず、自分自身の意識と自覚とによって、真の自由・平等・博愛を実現できる時代を迎えたのです。
人は、真の自由を得ることができます。
真の平等を、真の博愛を実現できる時代に入ったのです。
そういった自由・平等・博愛による新しいライフスタイルが、前のページで述べた「宝瓶宮時代とライフスタイル」と、これから述べる「セルフ・ブランディング」です。
One-Point ◆ フランス革命から200年以上経った今も、真の自由・平等・博愛は、なかなか実現できないでいます。本当に実現できるのか? という疑問もおありでしょう。物事にはプロセスがあります。準備期間を経て、一つずつ確実に進んでいきます。いわゆる王道です。星のディレクションによると、「宝瓶宮時代の意識と目覚め」が始まるのは、2012年からですが、その前の2009年頃から徐々に影響が現れてきます。同時に「双魚宮時代のリバイバル」のディレクションも始まっていきます。
●すべての存在は、それ単独で存在することはできません。
人も、独りで存在しているのではなく、他の人々や自然環境や動植物との共存によって、存在することが可能です。
それは地球と太陽系、また宇宙全体においても同様なのです。
宇宙と人間さえ、何らかの共鳴関係にあるということが、占星学の根拠ともなるわけです。
水瓶宮(宝瓶宮)のシンボルマークは、同じ形をした上下の波のかたちによって象わされています。同じ形ということが共鳴関係を示しています。
では、真の自由・平等・博愛とは、どのようなものでしょうか?
宝瓶宮時代の黎明をもたらした自由・平等・博愛の精神は、宝瓶宮時代の価値観である共鳴関係論によって解釈することが正解です。
ちなみに、「共鳴関係論」というのは、いわば、すべての存在は共鳴関係によって存在しているということです。
「自由」とは、平等の実行であり、博愛の実現です。
「平等」とは、博愛の実行であり、自由の実現です。
「博愛」とは、自由の実行であり、平等の実現です。
言葉は入れ替えてもかまいません。
分かりにくいと思いますので、簡単にご説明いたします。
*
「自由」とは、平等であることです。
自分だけが自由、相手だけが自由…なんて自由は、絶対にありません。
フランス革命は専制君主(ワンマン)だけが自由に振る舞い、市民に自由がなかったから起こったのです。自由が平等ではありませんでした。
ホントの自由は、誰もが平等に自由であることです。
「自由」とは、博愛です。
自由というのは、誰もが自由ということですが、そのためには、自分とは意見や立場や考えや個性が違う相手を、尊重する姿勢が必要です。
相手の意見や考えも認めなければ、お互いの自由は生まれません。
ここに、博愛が実現されていることがお分かりですか?
「平等」とは、博愛ということです。
人間であれば、一人ひとり姿かたちのみならず、意見や立場や考えや個性が違うのは当たり前です。人間として平等でも、一人ひとり個性は違うんだ、という常識です。
自分とは違う相手の個性を認めてこそ、お互いに平等です。
それゆえに、横並びのゴールインは、不平等です。
個々人の能力や個性を無視して、同列を強いるからです。
ホントの平等は、能力や個性や考えが違うことを、お互いに理解・尊重することです。
「平等」とは、自由です。
あなたは、何を平等にしてほしいですか?
食べ物? お金? 愛情? 名誉? 人それぞれ欲するものが違うのに、全員に同じものを与えますか? それが平等ですか?
欲しけりゃ別ですが、そんなもの、余計なお世話であって平等ではありません。
平等というのは、自分の欲するものを自由に求め、得ることができる可能性が与えられた社会環境があることです。
平等というのは、自由に責任と目標を果たせることです。
「博愛」とは、自由ということです。
もう、分かりますよね。
自分とは違う相手の意見や立場や考えを認め、その目標や個性を尊重できるということは、自由だからこそ可能なのです。
「博愛」とは、平等です。
お気づきのように、博愛というのは、自分と違っても、相手の意見や立場などを認めて尊重することです。
フランス革命における「自由・平等・博愛」の「博愛(Fraternite=フラテルニテ)」は、日本語の「博愛=すべての人を等しく愛すること」とは若干、意味が異なっています。
宝瓶宮(水瓶宮)の代表的な象意の一つ、「友愛」ということです。
ボクとは違うけれど、み〜んなトモダチ! という平等、対等ってことです。
One-Point ◆ 日本で博愛など「愛」がつくと、どうしても情に絡めてしまいます。情愛とか慈悲をニュアンスに含めるのです。フランス語の Fraternite=フラテルニテ(博愛)は、もっと知的な概念です。クールに、自分と考えが違っても他者は尊重するということです。水瓶宮っぽいでしょう。(笑)
●自由主義経済では、個々人が自由に利益を追求することによって社会全体にも利益がもたらされる「(神の)見えざる手」という考えがあります。
たとえば、食品偽装など不正な利益追求は、消費者も利益を追求するために、結果的に不信感を持たれて、社会的に存続できなくなるのです。それには、国(官僚)などが誤った余計な介入をしないことです。
自由民主主義における自由と個性においても同じようなことがいえます。各自が自由に個性を追求していくことによって、社会全体が発展していくのです。
そのためには、親や教育者が…とまではいいませんが、あまり余計な口出しをしすぎないことです。
自らが体験しながら、向き不向きを悟り、学び(学校の勉強とはかぎりません)、成長していくことが、本人に与えられた責任だからです。
さて、ここからが本題です。
なぜ、長々と自由・平等・博愛を取り上げてきたのか書かなければなりません。
その意図するところは一つ、「個性」にあるのです。
双魚宮時代の「対立二元論」の世界に自由・平等・博愛は、存在することができません。
自由・平等・博愛がない中で、皆様は、どれくらい自分の個性を発揮できると思いますか?
双魚宮時代の“支配/被支配”が現存していると考えてみてください。
江戸時代の士農工商といった身分制度はもちろん、つい最近の軍国主義の日本にもあったお話です。
「何をしたい」「あれをしたい」といった個人の意志は、大幅に制限されてしまいます。
支配が厳しいほど、職業選択の自由もないし、参政権もありません。
自分の意見を代弁するマニフェストを選ぶ1票の権利さえありません。
それどころか、日常生活さえ、他人の手に委ねられてしまいます。
ちょうど日本海の向こうにある、どこかの国のようです。
そんな中で、個性の発揮なんて不可能です。
自由・平等・博愛が実現できなければ、本当の個性の発揮なんてありえません。
そのことが分かれば、自由・平等・博愛が実現した社会、すなわち宝瓶宮時代は、個々人の個性を発揮していく時代であることが見えてきませんか?
One-Point ◆ 宝瓶宮時代において、個性の発揮は最重要テーマの一つです。その他の宝瓶宮時代の特徴については、「宝瓶宮時代と占星学」の項で述べた「宝瓶宮時代はどんな時代か」をご一読ください。
宝瓶宮時代の黎明である自由・平等・博愛を求める意識の高まりによって、人類は、自由・平等・博愛が実現できる社会づくりを目指してきました。
それが自由民主主義社会です。
この間、世界を二分した対立二元論の宗教的政治思想との最終戦、共産主義との激戦がありました。
宝瓶宮時代の前史です。
その代表国家が解体していくとともに、宝瓶宮時代が始まりました。
もはや、自由民主主義社会は、次のレベルにステップアップしなければなりません。
これまでの政治家や官僚などが社会をリードしてきた暫定指導体制から、市民によるリーダーシップへの移行が始まるのです。
先のページ「宝瓶宮時代とライフスタイル」の内容を思い起こしてください。
宝瓶宮時代のヒーローであり、時の権力者であり、世界をリードしていくのは、私たち市民一人ひとりです。
そのために、市民感覚を持った東国原宮崎県知事や橋下大阪府知事が当選し話題となっていくのです。
彼らは、一昔前の政治家(権力者然)とした考えではなく、市民目線の感覚ゆえに、市民の代弁者として時代の流れに沿って運勢を得ているのです。
それは今の時代が彼らに与えた個性の発揮でもあるのです。
個性を発揮するために、皆様に政治家になれといっているのではないことはお分かりだと思います。
自由・平等・博愛の精神によって、皆様一人ひとりが自分にふさわしい個性を発揮していけばよいのです。
個性の発揮よって社会貢献が行なわれ、世界的な友愛社会が築かれていきます。
分かります?
人は、成長するプロセスと時間が必要ですから、直ちにでなくてもかまいません。
個性発揮によって自分も生きがいを得、社会的にも友愛社会づくりに貢献するようになっています。個人と社会は共鳴関係にあるからです。
個性の発揮もまた、自由・平等・博愛の精神を持つことによって成されます。
そういった自由・平等・博愛に基づく個性創造のライフスタイルを「セルフ・ブランディング」とよびます。
SMAPの「♪世界に一つだけの花」(作詞・槇原敬之)にあるように、一人ひとりが特別なオンリーワンなのです。まあ、それはナンバーワンをも意味していますが…。
個性を発揮することによって、宝瓶宮時代の運勢の波に乗れます。
オンリーワン&ナンバーワンですから当然、発展の可能性は高くなります。
One-Point ◆ 一部の歴史家は、他にも人類歴史の興亡盛衰がある、何も自由・平等・博愛の実現だけが近代歴史の全容ではない、なんて異論が出るかもしれません。ここに書いているのは、占星学からみた大きな人類歴史の本流(いわば根幹)を述べています。樹木(人類歴史)は根幹だけで成り立つものではないので、枝葉末節、花果実落があるのは当然です。
●「あれをしろ!」「これをしろ!」や「あれをしてはいけない!」「これをしてはいけない!」というのでは、個々人の成長に限界が生じます。
真の成長は、自分に自由が与えられていてこそ、成すことが可能です。
宗教的権威や世俗的権力による強制(支配)がいつまでも続けば、人類は永遠に成長できません。
現段階では、成長途上に与えられた自由ですから、さまざまなトラブルが起こります。
それゆえ、仕方がない面もあるのですが、トラブルを少なくしつつ、個人も人類も自由によって成長していくことが、宝瓶宮時代の真意です。
最後に、個性の発揮、セルフ・ブランディングについて少し述べておきましょう。
セルフ・ブランディングを築いていくライフスタイルは人さまざまです。
「自分の個性は何か?」、発見する道筋は一人ひとり違います。
「いつ花開くのか?」、その時期も一人ひとり違います。
性格や運勢や置かれた環境が一人ひとり違うように、セルフ・ブランディングの道も一人ひとり違うのです。
人と違う、ということが重要なのです。
もう一つ重要なのは、ブランドとは何か、正しく理解しておくことです。
昨今のブランド・ブームも、「本物の価値ある自分になりたい」という宝瓶宮時代の波動が、ブランド・グッズやブランド・ファッションの人気となって現れているのです。
そこでいうブランドとは「信用と価値」です。
「品質」の伴わないブランドは、本物ではありません。そこに信頼や希少性やさまざまな価値が生まれるからブランドとなるのです。
セルフ・ブランディングでいえば、「礼節と個性」です。
流行の「品格」とは少しちがうのですが、人間の品質という意味で「礼節」が伴わなければ本物のセルフ・ブランディングといえません。礼節というのは、自由・平等・博愛の精神があるということです。
分かりにくければ「人格」という言葉に置き換えてもかまいません。
少し具体的にご説明いたしましょう。
「お笑いブームの謎を解け!」をお読みになられた方は、多少なりともご理解できると思いますが、お笑い芸人は個性(キャラ)が勝負です。
「お笑い」という限られた舞台の上ですから、人を小バカにしたり、どついたり、キレて怒ったりして、一般社会では受け入れられない態度を見せても、それが観衆や視聴者を楽しく笑わせる芸(才能)として認められます。
でも、人気が続く芸人というのは、そういった芸の才能と同時に、舞台裏や楽屋では礼節を保つ人格を身に付けているものです。そういった人を尊重する姿勢が芸の細事に現れるために、人は楽しく笑えるのです。
また、最近は「おバカブーム」とかで、おバカタレントの人気が高まっています。
彼らは、「おバカタレント」ではあっても、ホントのバカ(愚者)ではありません。セルフ・ブランディングに必要な礼節(友愛精神)を身に付けているからです。
また、お笑いの芸は技術的に意図された芸だとしても、「おバカ」は本物だから面白いのです。
「本物」や「真実」が宝瓶宮時代の重要な象意ということを思い起こしてください。
しぜんと出る本物の個性(キャラ)が、セルフ・ブランディングの重要なヒントになります。
One-Point ◆ 「知識や学歴」が個性ではありません。知識や学歴のあるホントのバカ(愚者)は案外と多いものです。社長になって人を騙す、その行為の道理も分からないのでは、とても賢いとはいえません。人格、すなわち自由・平等・博愛の精神がないのです。それはニセブランドです。「おバカタレント」のほうが、正直で人を騙さない(騙せない?)分、ブランドになりえるのです。
※「宝瓶宮時代のライフスタイル」は、とりあえずここで一段落です。そのうち続編を書くかもしれません。個性や運勢の違いによって幅広いので、自分自身で自由に発見し、クリエイトしていくことが重要です。
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