宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―
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●第1稿 2024年 2月 7日 アップ。
人類が3度の世界大戦に見舞われた20世紀は「戦争の世紀」と呼ばれています。
『日本書紀』が編纂された直前の7世紀も同様でした。
そのため、現代人はもちろん7世紀の人々の脳裏に、われ知らず「人類(古代)の歴史は戦乱に満ちている」といったインプリンティングがなされます。
現代人はとくにそうです。
マスコミや学校教育の現場に誤った“近代合理主義”による唯物論「マルクス史観」(闘争史観)が認められることから、古代ヤマトの国づくりもすべて権力争いの歴史だったかのように誤認することになります。
『日本書紀』は、大和政権によるプロパガンダ(政治宣伝)の書です。
7世紀後半からはじまった万世一系の「皇統」や独立統一国家「大和」が、神代の昔から続いてきたかのように、“正統性”を宣べたものです。
やむをえません。
なぜなら、7世紀の国内外情勢の中で、早急に日本国内をまとめあげ、独立統一国家「大和」を構築する必要があったからです。
鉄剣が普及した「九州倭国」は別ですが、銅鐸祭祀文化の中にあった6世紀以前の「畿内ヤマト」の豪族らは、争いを好まず7世紀以降の「統一大和政権」に協力しています。
それが『日本書紀』に“国譲り”と記される所以です。
One-Point ◆ 「乙巳の変」(645)の翌日、蘇我蝦夷(そがの えみし)は自ら歴史書に火をかけ、船恵尺(ふねの えさか)が炎の中から『国記』を拾い上げて中大兄に奉ったと『日本書紀』に記されています。九州倭国の記録が残っていては、都合が悪いため焚書処分にしたものです。
●焚書は、次のように記されます。
「13日、蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。
船史恵尺(ふねのふびと えさか)はそのとき素早く、焼かれる国記を取り出して中大兄にたてまつった。」
焼失したはずなのに、誰か『天皇記』の存在を知っていたのでしょうか?
いずれにしても、『天皇記』(九州倭国王記)が残っていては、いろいろとヤバイことこのうえありません。
蝦夷自らが火を放って、焼却処分したことにしたようです。
編集経験のある方なら分かると存じます。
『日本書紀』がウソを記すとき、独特の表現や言い回しなど“クセ”が出ます。
どうしても記さなければならない骨格の“万世一系の皇統”は除いて、案外と律儀なところのある『日本書紀』は、正しい歴史を残そうと史実に反する箇所は、あえて“ウソ”と分かる書き方をしています。
なぜなら、後世の人々に委ねて真実を推測できるように図ったためです。
誰もが知っている代表例は、厩戸豊聡耳皇子(うまやどの とよとみみの みこ)と記される“聖徳太子”を創作した部分でしょう。
“聖徳太子”という称号は、1945年の終戦以降から呼ばれはじめます。
One-Point ◆ 10人が一度に太子に話しかけるとは思いませんが、ちゃんと聞き分けて、お答えになられたそうです。本来は九州倭国が定め用いられていた「冠位12階」等を定めた“偉大な人物”とされながら、殯(もがり)の記録がどこにも残っていないのは、実在の人物ならありえません。
縄文海進(縄文前期)の時代、ヤマト盆地は沼もしくは湿地帯でした。
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それゆえ葦が生い茂っており、古代人が住んでいたのはその周囲です。
のちに大物主神をご祭神とする大神神社(おおみわ じんじゃ)がある三輪山から延びる、記録に残る最古の道「山の辺の道」界隈が含まれます。
その道から少し降りていくと、かつては沼や湿地帯だったと思われる湿気のある場所に「箸墓古墳」があります。
古代大阪湾(難波の海)から今日の大阪市東部にあたる古代河内湖(草香江:博多湾にあった地名に同じ)に入り、ひと山を超えればヤマト盆地です。
紀元前の古代海人族は、古代オリエント系をはじめ複数いますが、陸に上がった彼らが拠点の一つとした場所、また“古代神々”の集会地です。
One-Point ◆ 『日本書紀』は、古代海人族よりも早く紀元前7世紀に初代「神武」が東征し、ヤマトを支配したとせざるをえませんでした。一方、史実を残そうとした『日本書紀』は律儀に、最初に国づくりをした彼らを、第10代「崇神天皇」になぞらえ「御肇國天皇」(はつくにしらす すめらみこと)と記しています。
最初に古代の国づくりをした人物は、固有のお名前は不明なので、一般名称で「大国主神」(おおくにぬしのかみ)と申し上げます。
『日本書紀』の一書(あるふみ)では、「国作り大已貴命(くにつくり おおなむちのみこと)ともいう」と記されています。
また、同一視されることがありますが、大国主神の古代国づくりを手助けしたのが「不思議な光が海を照らして…浮かんできて…」と記される大三輪(おおみわ)の神こと古代ヤマトを治めていた「大物主神」(おおものぬしのかみ:大神神社のご祭神)です。
『日本書紀』に「この神のみ子は賀茂(かも)の君たち…」と記されていることからいえば、“海を照らして浮かんできた”のは、いわゆる“八咫烏”(やたのからす)とされる古代オリエント系の人々につながる一族です。
いずれも物部氏の祖「饒速日命」(にぎはやひの みこと)の関連で、『日本書紀』の“万世一系の皇統”では、第10代「崇神天皇」(御肇國天皇:はつくにしらす すめらみこと)として組み込まれています。
One-Point ◆ ここに『日本書紀』の偉大な秘密が隠されています。「九州倭国」の歴代王たちや、「畿内ヤマト」の歴代主(ぬし、あるじ)たちを“皇統”に組み込むことで、すべての豪族や人々が7世紀後半以降の天皇のもとに協力し、独立統一国家「大和」建国に注力しやすくなります。
「九州倭国」や「畿内ヤマト」だけでなく、日本海側の越の国からも第26代「継体天皇」を“万世一系の皇統”に組み込んで、挙国一致を図っています。
このことをご理解いただければ古代史の真実はもちろん、今後の宝瓶宮時代における日本が責務としていく“和、絆、民度の精神”が見えてきます。
7世紀は、6世紀末の蘇我氏と物部氏が戦った「丁未の乱」(587年:ていびのらん)をはじめ、「乙巳の変」(645年)を含め、半島で唐羅連合と戦った「白村江の戦い」(663年)、古代最大の内戦「壬申の乱」(672年)など戦乱の時代でした。
それゆえ『日本書紀』は、紀元前660年とされる“神武東征”をはじめ数々の戦いによって“万世一系の皇統”が築かれてきたかのように記されています。
縄文時代をはじめ銅鐸祭祀の古代ヤマト王権は戦いを好んでいません。
『日本書紀』をみても、結局は「和を以って貴しと為す 逆らうことなきを旨とせよ」(17条憲法)と記されるように、今日の宝瓶宮時代に通じる「水瓶宮」で象徴される“国体”を構築していきます。
One-Point ◆ 「美しい国、日本」の“和の精神”を国際舞台で身をもって示した故安倍晋三元首相です。結果的に“自らの死”をもって日本人に遺志を広めます。銃撃事件の瞬間のあまりにも完璧な「ホラリー・ホロスコープ」を見たとき天意を悟りました。
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