宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代のアストロロジー―
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●第1稿 2024年 1月31日 アップ。
かつて連載した「日本の原点」(2013-2016)シリーズでも触れておきました。
古代オリエント(古代イスラエル)の影響が古代日本に3度あります。
そのうえで、統一大和が成立した6世紀末は緊迫度を増してきた東アジア情勢に対応するため、早急に国家体制を整える必要がありました。
われ知らずとも「日本書紀史観」を信じ込んでおられ方は信じられないと存じますが、大陸の冊封下にあった九州倭国は、倭の五王の半島の支配権を認めてもらえず、結局、畿内国との合併によって冊封下から離れ、6世紀末に独立統一国家「大倭」(おおやまと)を建国します。
しかし、7世紀の紆余曲折を経て、九州倭国は排除され、万世一系を記した『日本書紀』の完成とともに新たに天皇のもとに「大和」として、「水瓶宮」に象徴される“和”の国体による統一国家を築いていきます。
●双魚宮時代のメイン・ストリームは宗教信仰でした。
宝瓶宮時代の影響圏(1630)に入ると、近代物理科学が発祥します。
宗教だけで人は生きられませんし、また科学だけでも生きる意味はありません。
今後の宝瓶宮時代は、宗教だとか科学だとかを超えた超科学「共鳴関係論」を歴史パラダイムとしていきます。
ということで、『日本書紀』が封印した古代史の要諦をご紹介いたします。
“紀元前660年辛酉の年、初代「神武天皇」のご即位にはじまる万世一系”の日本書紀史観は額面どおりではなく創作神話です。
ただし、『日本書紀』が編纂されたした当時の国内外事情から、そうせざるをえない深い事由がありました。
初代「神武天皇」による神代からの独立統一国家「大和」を描いた理由は、万世一系を定着させ、早急に統一国家体制を築かなければならなかったからです。
従来の「ヤマト王権」や「九州倭国」ではなく、7世紀後半以降の「天皇」による大和政権が正統であると、プロパガンダ(政治宣伝)を展開する必要がありました。
当時の緊迫度を増す東アジアの情勢もあり、“統一大和”を早急に築かざるをえなかったこともあり悪いことではありません。
正当な理由や大義名分があったがゆえ、6世紀以前に畿内国を治めていた“ヤマト王権”の渡来系王族や日本各地の豪族たちも、「天皇」を受け入れて協力しています。
それはそれ、一方で豪族たちは、自分たちの“正しい歴史”や正当性を方便の多い『日本書紀』にならって「家伝」や「古史古伝」あるいは門外秘の口伝として残しています。
それらがオープンになった今日、逆に混乱して古代史の本筋が見えず、あれやこれやと混迷した見解が乱立状態です。
いずれでもいいのですが、720年に『日本書紀』が成立した事情を含め、「天運」が日本に働く歴史的意義をご理解しておくことは、今後の宝瓶宮時代を生きるのに重要です。
One-Point ◆ アストロロジカルに申し上げますと、日本人の民族性は「魚宮」で象わされ、国体は「水瓶宮」で象わされます。これゆえ日本は時代の流れとともにある「天運」に守られ、今後の宝瓶宮時代に世界的な責務を持つのです。
●双魚宮時代や宝瓶宮時代というのは、「春分点歳差」に基づく“アストロロジカル・エイジ”の一つです。
アストロロジカル・エイジというのは、「春分点」が黄道上を逆回りに1周する「プラトン年」(グレート・イヤー=約25,920年:計算値)を12等分した「プラトン月」(グレート・マンス=約2,160年:計算値)のことです。
「春分点歳差」が発見されたのは、古代ギリシャ時代の末期(紀元前2世紀)で、そこが“春分原点”になります。
そこから約2,160年(計算値)におよぶ双魚宮時代がはじまり、今日、宝瓶宮に「春分点」が移動(1989年)したため、現在は「宝瓶宮時代」の緒にあって双魚宮時代から宝瓶宮時代へ「パラダイム・シフト」が起きる混乱期にあります。
今年2024年は、その“分水嶺”のピークのときです。
『日本書紀』の最後は、次のような一文で締めくくられています。
●『日本書紀』 最終巻「持統天皇紀」より抜粋
原文:「八月乙丑朔 天皇 定策禁中 禪天皇位於皇太子」
読み:「8月1日、天皇は宮中での策(みはかりごと)を決定され、皇太子(ひつぎのみこ)に天皇の位をお譲りになられた」
すごい一文です。
「あ、そう」と読み飛ばされそうですが、この一文に『日本書紀』の編纂意図のすべてが集約されています。
男系による「万世一系」の皇統が、名実ともに定着していくことになったためです。
当初からの“万世一系”で統一大和だったとする日本書紀史観に我知らず洗脳されていると首肯できないでしょう。
信用してもらえないかもしれませんが、6世紀以前の「ヤマト王権」と、7世紀後半以降の「統一大和政権」は同じように畿内国が舞台ですが異なります。
そのため、阿波も九州も出雲も協力していますので、まったく無関係ではありませんが、いずれも排斥された側なので“我こそがルーツ”と声高に主張すると間違います。
6世紀以前のヤマト王権は、“万世一系の皇統”だったかのように『日本書紀』に組み込まれてしまいましたが実情は異なります。
One-Point ◆ 壬申の乱(672年)に勝利し『日本書紀』の編纂を発意された第40代「天武天皇」は、草壁皇子への皇位継承を願ったものの皇子は即位することなく薨られます。妃の持統天皇がリリーフで即位し、孫の珂瑠皇子(かるのみこ)への皇位継承に命がけで取り組むことになります。
●第41代「持統天皇」は第40代「天武天皇」の正妃で、第38代「天智天皇」の皇女です。
国家安泰のため万世一系を願った天武天皇の遺志を継いだ持統天皇は、孫の珂瑠皇子こと第42代「文武天皇」へ皇位を継承します。
天武系の皇統は第48代「称徳天皇」まで続きます。
たぶん、藤原摂関家の策動もあったでしょう。
天智天皇の孫で、62歳の第49代「光仁天皇」からは天智系の皇統へと移っていきます。
「二度と皇位争いは起こさない」と吉野で天武天皇は皇子らを集めて誓います。
共にその場にいた志貴皇子(しきのみこ:追尊春日宮御宇天皇)の王子「白壁王」が光仁天皇です。
今日の皇室へと続く男系の皇統は、志貴皇子を御祖(みおや)としてはじまっています。
『旧約聖書』を知っている人が『日本書紀』を読むと、何となく類似性に気づきます。
創世記にはじまる『旧約聖書』は、ユダヤ教やキリスト教の正典です。
そこには信仰の祖「アブラハム」の孫「ヤコブ」にはじまる古代イスラエルの12支族の歴史が記されています。
その中の2支族、南ユダ王国のユダ族と祭祀を司るレビ族によって、後年「ユダヤ教」と呼ばれるようになります。
聖書によれば、信仰の祖「アブラハム」は、カルデアのウル(ハランとも)から神が示した約束の地カナン(現在のイスラエル界隈)を目指すことになります。
ちなみに、イスラム教も「アブラハム」を信仰の祖とすることから、カナンの地は「パレスチナ問題」を抱えています。
それはともかく、アブラハムが旅立った「カルデア」は、当時から東の地平線上に昇る天体観測を行ないホロスコポスと呼ばれ、「アストロロジー」(天体の学問、星の学)の原点となった知的集団でもありました。
彼らはのちに「カルデア王国」(新バビロニア:前7世紀)を建国しています。
One-Point ◆ カルデア人の天体観測は、古代ギリシャに伝わります。双魚宮時代の影響圏(前6世紀〜前2世紀)に入ると、当時の世界観「四大元素説」(熱冷乾湿/火土風水)によって解釈された四角いホロスコープの発祥とともに、古典アストロロジーが誕生していきます。
●6世紀以前の畿内国は、カタカナで“ヤマト”(王権)と記しています。
九州倭国と畿内国との合併による「大倭」(おおやまと)以前です。
7世紀の「乙巳の変」(645)によって、蘇我本宗家は滅ぼされ、大倭の名称を引き継ぐかたちで7世紀後半以降にはじまったのが「統一大和」です。
皇親政治を行なった第40代「天武天皇」を含めてもいいのですが、8世紀になると藤原摂関家による大和朝廷の時代へと移っていきます。
連載「日本の原点」でも触れたとおりです。
「日ユ同祖論」は間違いですが、古代日本の国づくりには、古代イスラエルをはじめとした古代オリエントの一団がかかわっています。
しかし、『日本書紀』が、初代「神武天皇」から万世一系の独立統一国家「大和」としたため封印され、彼らをはじめ“ヤマト王権”は、創作された万世一系の皇統の中に巧妙に組み込まれていきます。
日本国の維持存続のため必要だったので、彼らは“和”をもって協力し、統一大和へと進んでいきます。
キッカケとなったのは、6世紀末の「九州倭国」と「畿内国」の合併による「大倭」の成立です。
それまで畿内国「ヤマト」を治めていたのは、海人族の物部氏、出雲系の“大国主”、また大王“大物主”をはじめ“八咫烏”(やたがらす)と称される古代オリエント系の人々でした。
結局、“八咫烏”は国づくりの功績もあって、『日本書紀』神話では、紀元前7世紀の神武東征を助けたと記されます。
年代はウソですが、統一大和に至るまで秦氏や賀茂(鴨)氏が国づくりに大きく貢献してきたのは事実です。
それゆえ、秦氏とも縁が深い宇佐八幡宮(宇佐神宮)より、第38代「称徳天皇」に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣が下され、本当かどうか確認するという「宇佐八幡宮神託事件」(769年)が起きています。
One-Point ◆ 6世紀後期の「丁未の乱」(ていびのらん:587年)は、仏教の導入を推める蘇我氏と神道を維持する物部+中臣連合の戦いのように矮小化して『日本書紀』に記されています。実際は九州倭国王「阿毎多利思比孤」系と畿内国「ヤマト王権」との戦いのようです。
●九州倭国系の蘇我氏による「丁未の乱」は事実上の東征です。
勝利した九州倭国王「阿毎多利思比孤」(あめのたりしひこ)は、倭国の首都を大宰府から、より安全な内陸の畿内ヤマトに移します。
一方、『日本書紀』に記されることは決してありませんが、隋の高祖文帝に第1次「遣隋使」を派遣し、『隋書』に残されるように“日が昇れば弟に政務を譲る”(よろしく)と、冊封下から離れる旨、仁義をきっています。
このときの文帝の言葉は「はなはだ義理無し」です。
これは、1世紀の奴国の時代、3世紀の卑弥呼の時代、また今日まで冊封下にあって恩義を受けておきながら、義理がないではないかという意味です。
「丁未の乱」に勝利し九州倭国優位で合併したのち、第2次「遣隋使」を派遣したとき、国書に記されたのが有名な「日出ずる処の天子」です。
独立統一国家「大倭」(のちの大和)の成立によって、阿毎多利思北孤大王(おおきみ)から、対等の立場で隋王にご挨拶したもので事実上の独立宣言です。
こののち仏教寺院のいくつかが、九州倭国から大和に移されています。
もう一つ書いておきます。
神武からの万世一系による統一大和を創作したため、事実上の古代国づくりをした“大国主”の一人「饒速日尊」(にぎはやひのみこと)と「瀬織津姫」(せおりつひめ)の存在は封印されることになります。
夫の天武天皇の依頼を受けて、7世紀に持統天皇が伊勢の祠を今日のように神宮として立派にし式年遷宮を定めます。
当初、男性神「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひのみこと)こと天照大御神の正宮と並んで、荒祭宮に祀られていたご祭神は「八十枉津日神」(やそまがつひのかみ)こと一名「瀬織津姫」でした。
ですが、8世紀720年に完成した『日本書紀』の編纂にあたって、藤原不比等の発案によって「持統天皇」を女性神「天照大御神」になぞらえ、孫の「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)への天孫降臨を創出します。
天武と持統の孫、第42代「文武天皇」への皇位継承による万世一系を定着させるためです。
そのあおりを受けたかっこうで、饒速日命を助けて共に国づくりをし荒祭宮に祀られていた正妃「瀬織津姫」がいては都合が悪いことこのうえありません。
そのため、ご祭神を「天照大御神荒御魂」(あまてらすおおみかみ あらみたま)に変えられ記録から消されてしまいます。
One-Point ◆ 唯一、中臣神道の祝詞「大祓詞」(おおはらえのことば)の中に、祓戸大神(はらえどのおおかみ:祓戸四神)の筆頭に瀬織津姫の名前が残されています。「さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬にます瀬織津姫という神、大海原に持ち出でなむ」。まるでレムリアのごとく、津波とともに海に消えた生命を暗示するかのようです。
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