宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
●第1稿 : 2014年 4月28日アップ
※2014年 4月29日 画像を追加。
古代史は、それぞれに諸説があって「プンプン」です。
結局は、それだけ混乱する「原因」となる理由があるからです。
その理由を解き明かせば、事の次第が見えてきます。
史実は、「事実」として確かにあるのは当然です。
日本古代史においては、その史実を解き明かす手立ては、『古事記』と『日本書紀』がメインです。
そこに考古学的な裏づけがともなえば、確度は高いものになります。
ところが、「記紀」には、意図的に「作為」して記述した箇所があるために、肝心な部分が見えなくなっています。
なぜなら、『古事記』と『日本書紀』は、日本成立の歴史を記した「正史」であると同時に、一部分ながら、天智系天皇と藤原氏の正当化を図る「プロパガンダ」の書になっているためです。
その原因となったすべての「出来事」は、中大兄(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が、蘇我入鹿を「弑逆」した「乙巳の変」に起因します。
「弑逆(しぎゃく、しいぎゃく)」というのは、臣下の者が王や君主を殺すことです。
「そんなバカな、中大兄は天皇の子、皇子だぞ」
一般的にはそう「誤解」されています。
しかし、中大兄は、真に皇子だった天武天皇(大海人皇子)と兄弟ではなかったことは、もはや事実とされています。
それどころか、『日本書紀』さえ「中大兄」とは記しても、「中大兄皇子」と号してはいないからです。
「乙巳の変」は、臣下の中大兄が蘇我大王を弑逆した事件です。
ただし、その後、孝徳天皇を立てて、(多分)自ら「皇太子」となり、実質的に「摂政」として政治を司っています。
さらには、白村江の戦いののち、正統の大海人皇子(のちの天武天皇)の後ろ盾によって「天皇(大王)」になってしまいました。
つまり、天皇を中心とした「万世一系」の日本書紀史観から中兄大をみると、最初から「皇子」だったかのように「誤解」してしまうのです。
意味は、分かりますか。
あえて、そのような誤解が生じるように、意図的に修辞(レトリック)が施されているのです。
「万世一系」という考えは、実は、天智の次、第40代「天武天皇」からはじまります。
天武天皇の二度と皇位争いは起こさないという「吉野の盟約」と、万世一系の皇統を明らかにして、天皇の正統性と日本の「和」と「統一」を図ろうとした「記紀」、すなわち『古事記』と『日本書紀』編纂の意図からはじまります。
それ以前の大王、天智天皇(大王)や蘇我三代の大王に、そんな考えはありません。
天武天皇が「和」の象徴として万世一系の天皇を位置づけたのです。
One-Point ◆ それはともかく、「乙巳の変」ゆえに、天智系天皇と藤原氏は、架空の初代「神武天皇」を創作し、実際の初代である東征した「武内宿禰」の正体を秘匿せざるをえなくなりました。初代天皇が、実は、第15代「応神天皇」と「武内宿禰」であることは、このサイトでも何度かお伝えしてきたとおりです。今回は、その「初代天皇」にピントを当てて、真実の「日本成立史」の一片をお届けいたします。
「舎人親王(とねりしんのう)」
天武天皇5年=676年〜天平7年11月14日=735年12月6日。
天武天皇の皇子で、舎人皇子(とねりのみこ)とも記されることもあります。
『日本書紀』編纂の総裁を務めた歌人。
第47代「淳仁天皇」の父。
初代「神武天皇」は誰かをはじめ、「東征」のルートは疑問です。
その出発点となる「天孫降臨」の地など、最も正確であるべき「始祖」に関する記述にはあいまいさが多いのです。
『古事記』と『日本書紀』から、「初代天皇」に関する史実を解明するためには、「東征」ののちに地名の変更が行なわれことや、「記紀」が上奏されたのちに「記紀」の記述にそって、神社の創設や由緒が創作されたり、各地に伝説が作られたことを理解しておかなければなりません。
たとえば、「日向」の地名がそうです。
また、宇佐神宮に「応神天皇」が祀られるようになったのもそうです。
それゆえ「初代天皇」に関して、『古事記』や『日本書紀』を文字どおりに読んでも、史実から離れていってしまうことが起こります。
歴史は、「ときの権力者」にとって、絶対に知られては困る重大な歴史的事実を隠しました。
絶対に書き残せない史実ゆえに、歴史を改ざんすることが起こるのです。
近々の例では、日本が東アジア諸国を解放した「大東亜戦争(太平洋戦争)」がそうでした。
『古事記』や『日本書紀』にも、「初代天皇」に関して同様のことが起こっているのです。
『古事記』と『日本書紀』を完成させたときの権力者、藤原氏(中臣氏)が傀儡(かいらい)とした天智系天皇は、実際の「初代天皇」の皇統ではないからです。
それどころではありません。
彼らの父祖、中大兄と中臣鎌足は、「初代天皇」を先祖に持つ蘇我大王家を、そうとは知らずに「乙巳の変」で弑逆し、滅ぼしてしまい、結果、その地位や立場を手に入れていたからです。
ご納得できますでしょうか。
『日本書紀』の矛盾点を検証し、よく読めば、実在の「初代天皇」が誰なのかがみえてきます。
その事実は、天智系天皇と藤原氏にとって、絶対に書き残すことができません。
書いたとたんに失脚します。
失脚するだけならいいのですが、せっかく天武天皇以来、築きかけていた「独立統一国家日本」は再び、混乱しかねません。
当時の唐や新羅の時代にあって、それだけは絶対に避けなければならない事態なのです。
幸い、『日本書紀』編纂の総裁を務めていた舎人親王は、天武天皇の皇子であり、文人(歌人)であり、賢い人です。
「再び、皇位争いは起こすまじ」という天武天皇の「吉野の盟約」を当時は4歳ながら、母親の持統天皇から聞いて引き継いでいます。
また、天皇を「和」の象徴とした統一国家日本の形成こそが、父、天武天皇が残した「記紀」編纂の目的や意図であるために、事を荒立てずに藤原不比等とうまく調整しています。
書けることのみを書いて、書けない史実は、よくよく読めば分かるように暗喩にして書き記しています。
そういうこともあって、直接的には記していないのですが、後世の人々の判断に委ねて、よくよく読めば史実が分からなくもないように記されているのです。
One-Point ◆ 『日本書紀』に関するお話は、一連の「占星学と解く「日本成立史」」をご高覧ください。この「番外編:神武天皇と武内宿禰」は、その前提のうえに論をすすめていくことになります。もちろん、多少、長くなるのはやむをえませんが、当ページをお読みになられるだけでも分かるように、なるべく記してまいります。
天智天皇の皇子、大友皇子(弘文天皇)との「壬申の乱」に勝利した天武天皇は、のちに吉野の宮に御幸(みゆき)します。
そこで、天智の皇子と自分の皇子に次のようにのべます。
※
「自分は、今日、お前たちと共に朝廷で盟約し、1,000年の後まで、継承の争いを起こすことのないように図りたいと思うがどうか」といわれた。
皇子たちは共に答えて、「ごもっともでございます」といった。
(中略)
そうしたのち、天皇は、「わが子どもたちよ。それぞれ母を異にしているが、みんな同じ母から生まれたも同様に思われいとしい」といわれた。
そして衣の襟を開いて、その6人の皇子を抱かれた。
※
多分、『日本書紀』の中で、最も美しいシーンの一つです。
ここに「万世一系」の精神が記されています。
「記紀」編纂を命じた天武天皇から、「万世一系」の天皇という考えがはじまり、歴史にさかのぼって記されることになりました。
天皇は「万世一系」で問題はありません。
今上天皇も例外ではなく、それが「日本」です。
日本国の象徴として、「無私の精神」と、「和の精神」を今上天皇は体現され、日々、「祭祀」をつかさどられているからです。
常人に成しえることではありません。
「天皇」ゆえに成しえることなので、日本人なら認めざるをえないのです。
ちなみに、宝瓶宮占星学から補足いたしますと、「無私の精神」は、日本人の「民族性」=魚宮の「霊性」を体現したもので、「和の精神」は、日本国の「国体」=水瓶宮の「友愛(和)精神」を体現したものです。
これらは、日本の美しい大自然と、古代諸民族による連合国家「やまと」の維持から必然的に生まれました。
この2つの「精神意識」は、今後の宝瓶宮時代の目的である「友愛(和)世界」を築いていくうえで、世界の人々にとって模範となるものです。
それゆえ、天皇をはじめ多くの日本人が「やまと」の精神意識を持ち続けるかぎり、日本から天運が離れることはありません。
それはともかく、では、いったい、いつ、どこから実際の「東征」は行なわれたのでしょうか。
『日本書紀』の神代紀(上、下)に記された、「豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)」が「大和」を意味することは、明白です。
「大和」というのは、狭義の意味では畿内を指し、広義の意味では本州や日本全体を指します。
その「豊葦原中国」の国づくりを最初に行なったのは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子、大已貴神(おおあなむちのかみ)です。
これが『日本書紀』神代紀「上巻」のメインテーマになっています。
大已貴神は、豊葦原中国を平らげる際に広矛を用います。
この広矛は、当然、「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」を意味します。
大已貴神の父、素戔嗚尊が、出雲の国で八岐大蛇を退治したとき、その尾から出てきた不思議な剣です。
次に、神代紀「下巻」で語られるのは、天孫への「豊葦原中国」の国ゆずりと、初代「神武天皇」に至る系譜です。
大已貴神は、天孫への国ゆずりに際して、「天孫がもしこの矛を用いて、国に臨まれたら、きっと平安になるでしょう」といって広矛を奉げます。
そのため、この広矛こと宝剣「天叢雲剣」は、「豊葦原中国」を治めたものが持つ三種神器の一つになっています。
一方、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」から「豊葦原中国」へと、初代「神武天皇」は東征に出発します。
「神武」は、天照大神の天孫ゆえに、当然、神鏡「八咫鏡(やたのかがみ)」を受け継いでいます。
こちらは、高天原(九州)を平定したものが持つ神器です。
それゆえ「八咫鏡」と「天叢雲剣」は、日本を統一した天皇が持つ「二種の神器」になりました。
「えっ、二種? 三種の神器じゃないの?」
当初は「二種の神器」です。
第26代「継体天皇紀」を読めば、そのことが分かります。
「三種の神器」になったのは、7世紀末からで、「大和統一国家(大和朝廷)」になってのちのことです。
藤原不比等の提案によって、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」が神器に加えられ、『日本書紀』に「三種の神器」として記されるようになりました。
One-Point ◆ まとめますと、最初に「豊葦原中国」の国づくり、つまり少名彦命と第一次「大和統一国家」を築いたのが、大已貴命で、神器は「天叢雲剣」です。次に、「豊葦原中国」を譲り受けて、第二次「大和統一国家」を築いたのが、「神武天皇」とされる人物で、神器は「八咫鏡」です。最後に第三次「大和統一国家」が成立しますが、こちらも三段階に分かれます。まず7世紀初頭に、九州「倭国」の政務を近畿「日本(大和)」に委ねるかたちで統一したのが、アメノタリシヒコ大王こと蘇我馬子です。次に、「天皇」の名称を最初に用い、天皇による統一国家形成への道筋をつけたのが、天武天皇です。その後、「大和朝廷」によって統一日本が完成します。このときの神器が「八尺瓊勾玉」です。第一次から第三次は、歴代天皇でいえば、第10代「崇神天皇」→第15代「応神天皇」→第40代「天武天皇」が中心になります。それゆえ、応[神]天皇と天[武]天皇から、架空の初代[神武]天皇の東征と戦いのエピソードが創作されています。
※付記:このような「基本三数の二段構造」プロセスは、宇宙をはじめ、恒常的な存在として物事が確定していくときに現われる「数理法則」です。古代日本(天皇制)も、このプロセスによって継続する国体となっていきました。…参照「数理法則とクオリアル・ワールド」伝授講座
国粋主義者の本居宣長は、「此地は韓國に向ひ…」の一文は間違いだと考えて、本居『古事記』から削除してしまいます。
朝鮮半島に「馬韓」や「加羅(から)」はあっても、当時、「韓国」という国はありません。
右の本文に書いたように、「韓國(からくに)」というのは、大陸全体を意味します。
しかも、そこは「黄泉の国」だと書いているのです。
4世紀の日本(倭国)は、朝鮮半島の「任那(みまな)」や「加羅(から)」を治めていました。
また、「記紀」が編纂された7〜8世紀は、遣唐使の時代で、唐(から)に向かうに「此地(九州北岸)」は、便利がよいという意味です。
決して「韓國(からくに)」のことを、「いと吉き地」といっているわけではないし、宮崎県高千穂が「天孫降臨」の地でもないので、削除しなくてもよいのです。
初代「神武天皇紀」には、次のように記されています。
東征に出発する際の記述です。
『日本書紀』
●「神武天皇」(神日本磐余彦天皇)より抜粋
(神武天皇が)45歳になられたとき、兄弟や子どもたちに言われるのに、「昔、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と天照大神が、この豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を、祖先の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられた。
(中略) 塩土の翁(しおつつのおじ)に聞くと、『東の方に良い土地があり…(中略)』と。
思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。
(中略) そこに行って都をつくるにかぎる」と。
諸皇子たちも「その通りです。速やかに実行しましょう」と申された。
この年は太歳の甲寅である。
その年冬10月5日に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向かわれた。
神武は、「豊葦原瑞穂国」から東征に向かいます。
『東の方に良い土地があり…』というのは、当然、「豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)」のことです。
もう一つ、「塩土の翁」からアドバイスをもらっていることが重要です。
「しおつつ」というからには、「潮筒」つまり、海人族の住吉大神「表筒男命・中筒男命・底筒男命」との関連を考えなければなりません。
その謎解きはあとに譲るとして、では二つの国に共通する「豊葦原」というのは何を意味するのでしょうか。
定説どおりに、「豊かに葦が生い茂る土地(湿地帯)」で間違いはありません。
ここでご質問です。
では、「天孫降臨」の地はどこでしょうか。
通説のように、神武東征の出発地とされる「宮崎県高千穂」でしょうか。
かの山岳地帯が「豊葦原」、つまり豊かに葦が生い茂る土地(湿地帯)なのでしょうか。
『古事記』にも、次のように記されています。
右の本文で、『古事記』から抜粋してご紹介した瓊瓊杵尊の「天孫降臨」を解釈してみます。
あくまでも推測で、個人的な私見です。
まず、「天の石位(いはくら)を離れ」というのは、宇佐や安心院を離れという意味です。
なぜなら、そこは、巨柱石(磐境:いわさか、磐座:いわくら)が多くみられるからです。
次に、「天の八重多那雲(やへたなぐも)を押し分けて」というのは、「天(あま)」は「海人(あま)」でもありますので、穏やかな周防灘から、関門海峡を抜けて、玄界灘の荒海を押し分けて進んだことの詩的表現です。
その次の、「天の浮橋に浮きじまり」は、博多湾岸の「志賀島」またそこに通じる細い「海の中道(浮き橋)」に、一旦、とどまったことだと考えられます。
そこから「竺紫(ちくし)の日向…」つまりかつて一大卒(統治府)のあった伊都国に「天降りましき」と推測できます。
最後に、「此地ぞいと吉き地」、つまり博多湾は「住みやすい入り江」、「住吉」ということです。
なぜ宇佐や安心院が出発点なのかは、「神功皇后」になぞらえられた人物にかかわります。
『古事記』
●天孫降臨より抜粋
邇邇藝命(ににぎのみこと)、天の石位(いはくら)を離れ、天の八重多那雲(やへたなぐも)を押し分けて、稜威(いつ)の道別き、道別きて、天の浮橋に浮きじまり、そりたたして竺紫(ちくし)の日向の高千穗の靈(く)じふる峰に天降りましき。
「此地は韓國(からくに)に向ひ笠紗の御前(みさき)にま來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。かれ此地ぞいと吉き地」と。
天孫が降臨した「此地は“からくに”に向ひ」と記されています。
「韓國」と当て字されていますが、そんな国名は当時はありません。
「からくに」というのは、「記紀」が記された時代の「唐(から)」、もしくは神武東征を想定した時代の「漢(から)」で、外つ国、大陸の総称です。
では、宮崎県高千穂は、「此地は“からくに(大陸)”に向ひ」といえるでしょうか。
「からくに」に向かってもいないし、「豊葦原」にも該当しません。
事実は、「日向国」は東征後に定められたもので、「韓国岳」も「記紀」ののちに名付けられた名称です。
「からくに」に向かう地で、「豊葦原」でもある「天孫降臨」の地は、山中の宮崎県高千穂ではなく、「九州北岸」にあるのです。
なぜなら、東征に出発した「豊葦原瑞穂国」が、瓊瓊杵尊が降り立った「天孫降臨」の地でもあるからです。
One-Point ◆ もともと日向(ひむか)という地名は、卑弥呼(ひみこ)が女王国とした版図の九州北部に多くありました。それが、6世紀〜7世紀頃、九州「倭国」が解体され、「日本国(大和)」に統合されたころに、宮崎県の旧国名「日向国」として転用されました。「竺紫(ちくし)の日向」と「日向国」は、別の土地なのです。また、鹿児島県西端の「笠沙岬」もそうで、「笠沙」といった地名は、そこにはなかったことがハッキリしています。
古代の地図をご用意いたしましたので、ご高覧ください。
下の地図は、古代「河内湖」だった大阪難波、つまり「豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)」です。
現在の大阪には、古代は「河内湖」があり、そこには淀川や大和川の傍流など、多くの川が流れ込んでいました。
当然、湿地帯で、難波界隈が「豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)」です。
日本の中つ海「瀬戸内海」に面していることからも、「中つ国」で間違いはありません。
実際、当時は舟でさかのぼれた大和川の上流にある「橿原宮」で、神武天皇は即位されたと書かれています。
では、東征の出発地「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」はどこでしょうか。
九州で間違いはないのです。
その九州には2か所、該当する地があります。
一つは、九州の表玄関、博多湾を抱く奴国(なこく)つまり沼が多いゆえ沼の国といわれた博多湾界隈です。
博多湾は古代、現在よりも内陸や東西に広く、高祖山のふもと、糸島半島の付け根まで入り江で、御笠川や那珂川や室見川など多くの川が流れ込んでいます。
もう一つは、九州の裏玄関、筑後川が流れ込む有明海(湾)界隈です。
こちらも、有明海(湾)は現在よりもずっと内陸部に入り込み、筑後川は、かつて「一夜川」と言われたほど、洪水のたびに川筋が変わり、一時は吉野ヶ里遺跡の近くまで川がありました。
では、どちらが「豊葦原瑞穂国」でしょうか。
答えは、下図の博多湾界隈です。
なぜなら、博多湾岸には、「日本第一住吉大明神」つまり日本で最初の「住吉神社」があるからです。
そこから東征後、日本を平定した難波乃海(大阪湾)岸に、のちに全国の総本社となった「住吉大社」を創建したわけです。
この二つの神社は、今でこそ内陸部にありますが、古代は海辺でした。
「住吉」というのは、「すみのえ」という意味で、海人族にとって「住みやすい入り江」、すなわち海や湖が陸地に入り込んだ土地を表わします。
「住吉神社」や「住吉大社」は、ご存じのように、住吉三神「表筒男命・中筒男命・底筒男命」を祭神とします。
他にも、隣の入り江が「草香江」(日下の入り江)というのも両者は共通しています。
ですが、最大のポイントは、この地が「からくに」に向かう「天孫降臨」の地、つまり九州北岸であることと、やはり最初の「住吉神社」があることです。
One-Point ◆ 伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が、「黄泉の国」から帰られて、禊ぎ祓いをされたのが「竺紫(ちくし)の日向の橘の小門(おど=小戸)」と記されています。その禊ぎの際に生まれた神が、住吉三神「表筒男命・中筒男命・底筒男命」です。ちなみに、九州と大陸の間の海を「玄界灘」と呼びます。「玄界」というからには、その向こうが「黄泉の国(死の国)」です。その「醜(しこ)めき穢(きたな)き国」から戻ってきて禊ぎ祓いをされています。なので、竺紫の日向の橘の小門(おど)は、内陸部の宮崎ではなく、九州北岸(日本海沿岸部)でなければ、禊ぎ祓いの意味がありません。『日本書紀』の一書には、「上の瀬は大へん流れが速い。下の瀬は大へん流れが弱い」と、中の瀬ですすぎをされた、と記されています。上の瀬は玄界灘のことで、下の瀬は瀬戸内海のことで、その間の中の瀬は、やはり九州北岸部になります。そのため、奈辺が、すすぎをされたときに生まれた、安住族の祀る神「表津少童神・中津少童神・底津少童神」や、住吉大神「表筒男命・中筒男命・底筒男命」らの拠点となっていたわけです。
国生みに際し、『古事記』も『日本書紀』も、九州は「筑紫の島」また「筑紫州」と記されています。
その「筑紫の島」の中に、筑紫の國、豐の國、肥の國、熊曾の國はありますが、最初、日向国はなかったのです。
さて、「竺紫」と書く場合、今でこそ筑紫と記されますが、当時は北部九州を意味します。
天孫降臨の「竺紫の日向」も、禊ぎ祓いをされた「竺紫の日向」も、宮崎県を意味する「日向国」ではなく九州北岸部のことです。
以前、邪馬台国への出発地、一大卒(統治府)が置かれた「伊都国」を調べていたら「日向峠」がありました。
そこには「高祖山」という意味深な山があります。
上の地図からも分かるように、御前の糸島(伊都志摩)半島を「笠紗」とすれば、東西に山はなく、天孫降臨の地として記されている「此地は韓國(からくに)に向ひ、笠紗の御前(みさき)にま來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國」にピッタリです。
では、初代「神武天皇」は、実際は誰なのでしょうか。
何度か書いたことですが、天皇の諡号で「神」は、上(かみ)と同じで流れのおおもと、すなわち「始祖」を意味します。
「神武天皇」は架空なので除くと、第10代「崇神天皇」が最初の「始祖」で「豊葦原中国」の国づくりをした大已貴命(大国主神、大物主神)です。
次に「神」がつく第15代「応神天皇」は、大已貴命から国をゆずりを受けた実在の「始祖」です。
応神天皇の母は「神功皇后」です。
天皇以外に唯一「神」がつく人物です。
それだけに重要ですが、「神武」と同じように頭に「神」がつくために、どこか「架空」の人物を意味します。
ただし、神功皇后と応神天皇は、母子ともに「神」がつく以上、特別なメッセージが込められ、実際の「初代天皇」を象わしています。
重要なのは、ここからです。
「神功皇后紀」を読めば分かりますが、「東征」の時点では、応神天皇は、まだ幼児でしかありません。
神功皇后ご自身も、半ば「架空」です。
そうなると、実際に東征した人物は、「記紀」で神功皇后と誉田別皇子(応神天皇)に随行したと記されている「武内宿禰」しかいません。
彼が、事実上の初代「神武天皇」です。
武内宿禰が、「住吉大神」だというのは、もはや知られた事実です。
「住吉神社」や「住吉大社」に祀られる住吉三神「表筒男命・中筒男命・底筒男命」というのは、住吉大神「武内宿禰」のことだからです。
実際、「神功皇后紀」の東征には、何度も「表筒男命・中筒男命・底筒男命」が出てきます。
なぜかといえば、実際は「武内宿禰」の東征だったからです。
本当は、そのことを知っているのです。
知っていますが、舎人親王は、天智系天皇や藤原氏の手前、上述した事情から書くことができません。
結局のところ、第15代「応神天皇紀」というのは、半分は「武内宿禰」のお話です。
残りの半分が応神天皇のお話で、次の仁政を施した第16代「仁徳天皇紀」が事実上の応神天皇の御世のお話になります。
そのため「応神天皇紀」と「仁徳天皇紀」には、一部に似たエピソードが記されています。
もう少し続けましょう。
「応神天皇紀」には、不思議な逸話が記されています。
『日本書紀』
●「応神天皇」(誉田天皇)より抜粋
ある説によると、天皇がはじめ皇太子となられたとき、越国においでになり、敦賀の笥飯大神(けひのおおかみ)にお参りになった。
そのとき大神と太子と名を入れ替えられた。
それで大神を名づけて去来紗別神(いざさわけのかみ)といい、太子を誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名づけたという。
それだと大神のもとの名を誉田別神、太子のもとの名を去来紗別尊ということになる。
けれども、そういった記録はなく、まだつまびらかでない。
ヘンな文章でしょ。(笑)
「ある説」であり「記録はなく」、さらに「まだ(つまびらかでない)」なら、あえて書き残す必要はないのです。
なのに書き残したのは、本当は事実を知っているからです。
けれど、あからさまには書けないので、「ある説」とし、「まだ…」として、「本当はつまびらかにすべき」と暗に含めているのです。
もう少しなぞ解きをします。
「大神」というのは、実は「住吉大神」つまり「武内宿禰」を意味します。
「太子」というのは、もちろん皇太子「誉田別皇子」です。
なので、誉田別が皇太子になられたとき、東征した初代大王「武内宿禰」は「誉田別皇子」と「名」を入れ換えられた、つまり立場をお譲りになられたということです。
なぜかといいいますと、誉田別皇子は「八咫鏡」を引き継ぐ正統な皇孫なのです。
成長されて皇太子となられたため、武内宿禰は「執政権」をお返しされたわけです。
そのカギは、「神功皇后」の正体にあります。
ちなみに、武内宿禰は、かつては有明海(湾)岸だった肥前、現在の佐賀県武雄界隈を拠点とした父、屋主忍男武雄心命(やぬしおしたけおごころのみこと)の子で、熊襲を討伐して、九州を平定した日本武尊(たまとたけるのみこと)の前半生(のモデルとなった人物)でもあります。
その後、「神功皇后」になぞらえられた人物を旗印にして、「豊葦原瑞穂国」から東征に向かいます。
時代は、西暦300年頃、3世紀末のことです。
One-Point ◆ 『日本書紀』は、蘇我氏の由緒や、蘇我氏の先祖が武内宿禰であることを徹底的に隠しています。蘇我氏の業績は、聖徳太子を創作して彼のものとされ、蘇我氏は天皇をないがしろにした「悪者」として記されています。名前も「馬子」や「蝦夷」や「入鹿」など人間扱いされていません。ふつう日本人は、そこまで相手を貶めません。知らなかったとはいえ、蘇我大王(天皇)を弑して、権力を手に入れた藤原氏にとって、武内宿禰が蘇我氏の先祖であるのみならず、実質の初代天皇だったことは、絶対に書き残せない史実なのです。書けば、自分たちの父祖、中大兄や中臣鎌足は逆族となり、自分たちの立場は吹っ飛んでしまいます。その事実を秘匿したばかりではなく、当時の統一日本編成にかこつけて、地名を変更したり、神社の創設や由緒の創作など、必死に隠ぺい工作を行ないました。そのために、史実が分かりにくくなりました。
博多住吉神社の「一角のこまいぬ」。
※拡大画像なし。
通説となっている「東征ルート」は、多くの人が疑問視しています。
「宇佐」からいったん「竺紫(ちくし)の岡水門(おかのみなと)」にまで行って、また戻ってきて東征しているからです。
他にもあります。
もし、宮崎県高千穂が出発地であれば、通説で「速吸之門(はやすいなと)」とされる地元の「豊予海峡」を通るのに、水先案内人は必要としません。
水運や海運が交通手段だった当時、地元の潮流ぐらいは、お供の誰かが知っているからです。
なので、水先案内が必要になるのは、地元の豊予海峡でも関門海峡でもなく、不慣れな海、つまり明石海峡や鳴門海峡を通るときになりまです。
明石海峡は、沖合は三角波が立ち、潮流も最大7ノットにもなるために、小舟では難所です。
一方の鳴門海峡は、さらにうず潮が巻くことがあり、最大で10ノットにもなるので、当時の手漕ぎの舟では、安易にはとおれないためです。
実際、『古事記』では、吉備国を出発してから「速吸門(はやすいなと)」をとおっています。
さて、東征には日付が明確に記されています。
※
10月5日、東征に出発。
(日付不明:「筑紫」国の宇佐、足一つあがりの宮。)
11月9日、竺紫の岡水門(おかのみなと)。
12月27日、安芸の埃宮(えのみや)。
3月6日、吉備国の高島宮。3年後の2月11日に再び東に向かう。
3月10日、河内国草香村に着く。
※
上述のようですが、「筑紫」の宇佐だけは、日付がないのです。
にもかかわらず、ここだけは異常なことに、「足一つあがりの宮」で中臣氏(藤原氏)の先祖、天種子命(あまのたねこのみこと)と宇佐津姫とを娶(め)あわせたエピソードが記されています。
なぜ中臣氏の先祖が唐突に出てくるのかといいますと、一つは、神武東征に自分たちの先祖が随行したことにしたいからです。
もう一つは、称徳天皇の御世、宇佐大神宮(宇佐神宮)から神託をいただいたことからもお分かりのように、天皇の祖神を祀る宇佐と藤原氏(中臣氏)が血縁であることにするためです。
この項目は、あとから藤原氏によって、創作して挿入されたものなので、日付はなく、さらには、通常は「竺紫」なのですが、宇佐だけは「筑紫」となっていることからも、それが分かります。
こういったことがみえてくると、宮崎県高千穂は「天孫降臨」の地ではなく、後の世にそう誤解されるようになったもので、また、当然のごとく「東征」の出発地でもないことがハッキリします。
One-Point ◆ ここでは詳しくは書きませんが、日本第一住吉大神宮こと博多の「住吉神社」には、本当の武内宿禰を示唆するものを散見することができます。知らなければ格式のある由緒正しい神社です。ただし、知る人ぞ知るヒントがありますので、やはり実質上の東征した「初代天皇」であることを感じさせてくれます。
※上述の「神武天皇と武内宿禰」には、さらに以前の「九州(高天原)平定」や「邪馬台国」また「天孫降臨」にかかわる史実がありますので、機会をみてお届けしたいと存じます。
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