宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
↑ 「吉野の盟約」が結ばれた吉野情景。
●第1稿 : 2013年 6月 6日アップ
《表記の統一》
※時代にかかわらず「大王」や「王子」は、基本『日本書紀』に準じて「天皇」や「皇子」に表記を統一しています。
最終回は、蘇我大王家の由緒と、天武(てんむ)天皇の「和」の精神についてお送りいたします。
日本古代史のポイントの一つがここにあるからです。
天智(てんじ)系天皇と藤原氏の影響下で編纂された『日本書紀』は、重要な史実のいくつかを隠しました。
しかし、天武天皇の皇子「舎人親王(とねりしんのう)」が天武天皇の「和」の精神を引き継ぎ、天智系天皇と藤原氏のコンビと仲良くやりながら、『日本書紀』編纂の総裁を務めましたので、史実は工夫されて残されています。
『日本書紀』の編纂意図は、「大和一国史」と「万世一系」の演出です。
そのカゲには皇統から外されたり、悪者にされた重要人物がいます。
「大和一国史」というのは明らかに創作された歴史で、7世紀までは九州「倭国」が並存していました。
また、畿内「大和国」自体が、かつては出雲や尾張を拠点とした「本州国」の一部に属するものでした。
「万世一系」にしても、一般にいう「崇神朝、応神朝、継体朝」といった三王朝どころか、7世紀までは複雑に交錯しながら皇統が続いてきています。
とはいうものの、不思議なもので、現在の今上天皇は、最古代からの正統に戻っています。
『日本書紀』のもう一つの特徴は、天皇をとりまく豪族たちの由緒を記していることです。
神話とされる「神代紀」においても、「○○は安曇連(あずみのむらじ)らがお祀りする神である」とか「これは出雲土師連(いずものはじのむらじ)の先祖である」というように、由緒が記されています。
なぜ由緒が記されるのかというと、現代とは異なり、由緒や家柄は、そのまま地位や立場につながるからです。
そのため藤原氏(中臣氏)も、「○○は中臣氏の遠祖である」とか「中臣氏の先祖である」というように数か所も記されています。
1か所で事足りるのに複数なのは、明らかに権威を裏付けようとするもので、逆にそうしなければならないほど中臣氏は由緒がなかったことを意味します。
では、のちの天智天皇こと中大兄(なかのおおえ)と、藤原鎌足こと中臣鎌足(なかとみのかまたり)が暗殺した蘇我氏の由緒は、どのように記されているのでしょうか。
残念ながら『日本書紀』には記されていません。
当たり前です。
7世紀に実質の天皇だった蘇我大王家が、もし皇統につながる由緒を持つ真の史実を記せば、天智・藤原のコンビは未来永劫、天皇の一族を弑逆(しいぎゃく、しぎゃく)した逆臣というだけではなく、その立場と国を奪った逆賊になってしまいます。
『日本書紀』編纂時に権力を握っていた彼らの子供たちが、そんな事実を記すはずがありません。
不名誉であるばかりではなく、自らの立場を失ってしまうからです。
One-Point ◆ 『日本書紀』史観を信じると間違います。また、天皇を「現人神(あらひとがみ)」とする明治以降も、また戦後の共産主義史観による世俗の「権力者」とする天皇像も間違いです。本来の天皇は、今上天皇が体現されているように大自然の「祭祀者」であると同時に、「和」の象徴です。その原点は卑弥呼ですが、新しくは7世紀に初めて「天皇」と号した天武天皇の「祭祀」と「和」の精神にあります。
『日本書紀』は、渡来人も含めて、多くの人々によるプロジェクトで編纂されました。
天智系天皇や藤原氏の影響下にあったのは事実ですが、舎人親王をはじめ史実を残そうとする人々もいました。
天武天皇が命じた『日本書紀』編纂の意図は、「日本一国史」と「和」の象徴である「天皇の正統性」です。
それは、7世紀初めに九州「倭国」を中国の冊封体制から切り離し、畿内「大和国」に政務を委ねることで日本の独立と統一を図った蘇我氏の意図を引き継ぎ、歴史的に確立するための「正史」編纂事業でした。
しかし、天武天皇の崩御後、藤原鎌足の子「不比等(ふひと)」は、天武天皇の編纂意図を大義名分に、自分たちの「大和一国史」と「万世一系」に変えてしまいました。
時の「勢い」には逆らえないもので、それに沿って大きなウソは記しましたが、舎人親王らは「ウソを記す」より「書かない」という選択肢を取り入れています。
それが『日本書紀』に多くの「ナゾ」が残る一因です。
「書かない」ことで、あえて「ナゾ」を残し、疑問を提起して、史実を探れるようにしたのが舎人親王ら正統派の人々です。
それゆえ書いていない部分、すなわち「あるべき記述がない」部分、また、あえて「非常識」に記した部分から、逆に史実が読み取れるように工夫されています。
一例を挙げれば、「中大兄」もそうです。
中大兄は、本当は皇子(天皇の子)ではありませんでした。
それゆえ『日本書紀』は、決して「中大兄皇子」と表記していません。
あくまでも「中大兄」どまりなのです。
このような表記例は、『日本書紀』編纂における「表記方針」なので、ポイントとなる随所に見られます。
中大兄が皇子ではなかったことが分かれば、「舒明」「皇極」は天皇ではなかったか、中大兄の両親でなかったことが分かります。
一方、天武天皇は「大海人皇子(おおあまのおうじ)」と明記されていますので、間違いなく正当な天皇の子です。
これらから、結局、中大兄と大海人皇子は「兄弟」ではなかったことが分かります。
One-Point ◆ 「舒明」「皇極」両天皇の真相を明かせば、「その5:蘇我「天皇」政権の3代」に書いたように、「舒明天皇」は蘇我蝦夷(そがのえみし)が実質の天皇だったことを糊塗し、「皇極天皇」は天智・藤原のコンビが弑逆した蘇我入鹿(そがのいるか)が実質の天皇だったことを糊塗するために付け足された架空の天皇です。両天皇の和風諡号(わふうしごう)に「足(たらし)」が付いていることからも、それが分かります。
和風諡号に「足(たらし)」がつく天皇は次のとおりです。
06 孝安天皇…「日本足彦国押人天皇」
12 景行天皇…「大足彦忍代別天皇」
13 成務天皇…「稚足彦天皇」
14 仲哀天皇…「足仲彦天皇」
※ 神功皇后…「気長足姫尊」
34 舒明天皇…「息長足日広額天皇」
35 皇極天皇…「天豊財重日足姫天皇」
ちなみに「武」がつく天皇です。
01 神武天皇…「神日本磐余彦天皇」
21 雄略天皇…「大泊瀬幼武天皇」
22 清寧天皇…「白髪武広国押稚日本根子天皇」
25 武烈天皇…「小泊瀬稚鷦鷯天皇」
27 安閑天皇…「広国押武金日天皇」
28 宣化天皇…「武小広国押盾天皇」
40 天武天皇…「天渟中原瀛真人天皇」
※数字は代数。
では、蘇我氏は、どのような由緒を持つのでしょうか。
大伴氏や物部氏とともに「古代三大豪族」の蘇我氏です。
当然、『日本書紀』には大伴氏や物部氏と同様に由緒が記されていて…、いません。
「蘇我」という表記が初めて『日本書紀』に登場するのは、全30巻のうち18巻も後半の「宣化天皇紀」になってからです。
そこには唐突に、蘇我稲目宿禰(そがのいなめのすくね)を大臣にしたと記されています。
このことは重要なので、あとで解説いたします。
蘇我氏が何者なのか、どこの馬の骨なのか分からないようにしたのが、天智系天皇と藤原氏のコンビです。
しかし、史実はまったくの正反対です。
『日本書紀』に並ぶ『古事記』には、蘇我氏の由緒が記されています。
日本武尊(やまとたけるのみこと)とともに、古代史の二大英雄、「武内宿禰(たけのうちのすくね)」をその先祖とします。
武内宿禰の知られざる実像は、「その11:日本武尊と武内宿禰」に書いたように、九州から東征した実質の「応神天皇(武内宿禰)」です。
架空の初代「神武天皇」の実在のモデルの一人です。
つまり、「建国の父」なのです。
その武内宿禰を先祖に持つのが蘇我本宗家です。
そういった国家的由緒を持つ家柄なので、描く国家ビジョンのレベルが違います。
6世紀後半、蘇我氏が九州「倭国」を治めると、601年、隋王に「日出ずれば、我が弟(畿内「大和国」)に理務を委ねん」と伝えます。
「中国の冊封体制から離れて独立する」と述べたのです。
それに対する隋王文帝の答えは、「はなはだ義理なし」です。
「今まで我が中国の冊封体制の下で、長いこと倭王の権威をもらってきながら、いまさら止めるというのは義理がないだろう」という意味です。
しかし、考えてみてください。
『隋書』が記す倭王「アメノタリシヒコ」こと蘇我馬子(そがのうまこ)が、何の所縁(ゆかり)もなく、畿内「大和国」に国をゆずることはありません。
先祖の武内宿禰が、かつて九州「倭国」から東征し、建国した「弟(小)国」ゆえに、日本の独立と統一の大局的判断から、ゆずると決めたものです。
それゆえ蘇我馬子が、その際に「和」の象徴として立てた推古天皇の和風諡号は、「豊御食炊屋媛(とよみけかしきやひめ)」といいます。
先祖の武内宿禰が、同じように九州「倭国」から東征したとき、「神功皇后(じんぐうこうごう)」こと台与(とよ)を「和」の象徴として立てました。
その台与こそが、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」に食事を差し上げる「豊受大神(とようけおおかみ)」なので、それになぞらえて推古天皇を「豊御食炊屋媛」としたものです。
One-Point ◆ もう一人、架空の初代「神武天皇」の実在のモデルとなった人物がいます。それが天武天皇です。いずれも九州「倭国」が出自で、武内宿禰の「東征」と、天武天皇の「壬申の乱」のエピソードから、「神武東征」が創作されています。「神武」という名前は、実在の「応神(武内宿禰)」と、「天武」から、1字ずつとって「神武」としたのではないかと思えるほどです。
では、「蘇我氏」が『日本書紀』に初めて登場する「宣化天皇紀」をご紹介します。
「宣化天皇紀」から抜粋
「大伴金村(おおとものかねむら)大連(おおむらじ)を大連とし、物部麁鹿火(もののべのあらかい)大連を大連とすることは、ならびに元のようであった。また蘇我稲目宿禰を以って大臣(おおおみ)とした。」
何も知らない古代の人が、この一文を読んだらブッ飛びます。
意味が分かりません。
初登場で「大臣」はありえないからです。
大臣(おおおみ)というのは、現在の大臣(だいじん)とは異なります。
現代の「国家宰相」、「総理大臣」です。
古代は現代とは異なり、誰もが「大臣」になれる時代ではありません。
江戸時代もそうですが、由緒や家柄によって代々、就ける地位が決まります。
豪族「連(むらじ)」の中でも、そのトップの「大連(おおむらじ)」は古代から天皇とともにあった大伴氏や物部氏などにかぎられます。
「大臣(おおおみ)」というのは、さらにその上なのです。
初登場で蘇我氏が「大臣」というのは、『日本書紀』がそれまで蘇我氏の立場を隠したことを意味します。
そこに「書けない」史実が隠されているからです。
当然、蘇我入鹿を弑逆して蘇我本宗家を滅ぼし、その天皇の地位を奪った天智・藤原コンビにとって、書いたら絶対に困る蘇我氏の由緒がそこにあるからです。
では、蘇我氏がなぜ大臣なのかというと、先祖の武内宿禰が大臣(大王)だったからです。
武内宿禰が大臣だったのは『日本書紀』にも記されていることです。
天智系天皇と藤原氏のコンビは、蘇我氏と武内宿禰を絶対、どうしても結びつけたくなかったのです。
One-Point ◆ 『日本書紀』は九州「倭国」の存在を完全に消し去り「大和一国史」かのようにしてしまいました。当然、九州「倭国」の出自は記せません。とはいえ建国したのは、九州「倭国」や出雲や尾張国(本州国)の人々です。そのため、『日本書紀』や『古事記』では、九州「倭国」の出自や建国にかかわった人物に「武」や「建」をつけて暗喩しました。たとえば「神武天皇」、たとえば「日本武尊(『古事記』では倭建命と表記)」、たとえば「武内宿禰(『古事記』では建内宿禰と表記)」、そして「天武天皇」などです。
画像は、鎌倉時代の「博多古図」を元にした地図です。
那津の口(なのつのほとり)、当時の博多湾岸にあった最初の「住吉神社(日本第一住吉大明神)」が描かれています。
海人族、武内宿禰こと「住吉大神(住吉三神)」を祀る1800年以上の由緒を持つ神社です。
福岡の住吉神社は、25式年遷宮(最近は2010年)で、仏教伝来前の古い日本建築様式「住吉造」で建てられています。
※上の画像をクリックすると、鎌倉時代の「博多古図」(南北逆)を見れます。
実は、宣化天皇もまた武内宿禰の一族です。
『日本書紀』には、宣化天皇は、応神天皇の5世孫の継体天皇と、元からの妃「目子媛(めのこひめ)」の間の2番めの皇子と記されています。
「万世一系」を演出したために『日本書紀』は架空の仲哀天皇と神功皇后を創出して隠しましたが、応神天皇は武内宿禰と台与の子です。
そのため、宣化天皇は武内宿禰の7世孫にあたります。
宣化天皇も蘇我稲目も、ともに武内宿禰を先祖とする同族なのです。
さらに、目子媛は尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘です。
蘇我氏と尾張国も深い関わりがあります。
「宣化天皇紀」から抜粋
「応神天皇から今に至るまで、(筑紫に)籾種(もみだね)を収めて蓄えてきた。
そこで自分も阿蘇君(あそのきみ)を遣わして、河内国茨田郡の屯倉(みやけ)の籾を運ばせる。
蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の籾を運ばせよ。
宮家(みやけ)を那津(なのつ)の口(ほとり)に建てよ。
また、かの筑紫・肥国・豊国の3つの国の屯倉(を)分け移し、那津の口に集め建てよ。」
蘇我氏が尾張を基盤の一つとしていなければ、こういう指示は出せません。
同様に、宣化天皇自身が阿蘇君や河内国(肥後)を基盤とした九州王です。
宣化天皇の和風諡号の「武小広国押盾(たけおひろくにおしたて)」からも、それが分かります。
武内宿禰の父親が「武雄心命(たけおごころのみこと)」なので、同じ「たけお」にかかわる人物です。
先代の安閑天皇は、「広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)」といいますが、こちらも「武」がつきます。
宣化天皇は「武小」なので「弟」か「弟分」、二番めで間違いありません。
また「那津の口」というのは、古代の博多湾岸のことをいいます。
奴国(なこく、ぬこく)で那(な=奴)は「博多」、津は「港」、口は「河口や岸辺」をさすためです。
架空の初代「神武天皇」、実際は武内宿禰が、東征の出発点とした豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)が博多のこの一帯です。
現在の博多駅前、古代の那津の口(なのつのほとり)には、武内宿禰こと海人族「住吉大神(住吉三神)」を最初に祀った「住吉神社(日本第一住吉大明神)」が今も残っています。
宣化天皇が、「那津の口」に宮家と屯倉を建てよといったのは、始祖ともいえる先祖「武内宿禰」にかかわることからです。
One-Point ◆ 鉄道が全国に普及するつい先ごろまで、運送の大半は、すべて水運や海運でした。古代の要地施設は、必ず川辺や海辺にあります。天然の良港である博多湾と同様に、尾張の伊勢湾もまた海人族の重要な拠点です。『日本書紀』が、宣化天皇の母、尾張連の娘を「目子媛」とわざわざ記す以上、同時代の「蘇我稲目」と無関係ではないはずです。素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子で、最初に国を平らげた大已貴命(おおあなむちのみこと=日本武尊の後半生)が、最後の拠点としたのが尾張です。武内宿禰が東征したとき、尾張も同様に支配下におき、その一族の蘇我氏が九州のほかに尾張を基盤の一つとしていても、まったく不思議ではありません。
瀬戸内海には多くの島々があります。
また、幅も広い狭いがあります。
その中で、最も幅が狭く、「関所」のように、通る船を監視できるのが吉備国(岡山県)です。
岡山県玉野市と香川県高知市の間が最も狭く、間には小さな山状の大槌島しかありません。
ここを押さえれば、瀬戸内海を治められるのです。
そろそろ、まとめです。
6世紀末、九州「倭国」を治めた倭王「アメノタリシヒコ」こと蘇我馬子が、『隋書』に「倭王の姓は阿毎(あめ、あま)、字は多利思比孤(たりしひこ)」と記されるように、蘇我氏もまた海人族です。
当然です。
武内宿禰が海人族の「住吉大神(住吉三神)」ゆえに、その子孫の蘇我氏も海人族です。
その海人族が、日本各地の天然の良港であり、かつ広範囲に稲作が可能な平野を近隣に抱える博多湾、天草湾、鹿児島湾、伊勢湾などを押さえ、さらには九州「倭国」と畿内「大和国」を結ぶ「中央水路」の瀬戸内海を、自らの領地や、重要拠点とするのは、当然です。
推古天皇の時代、蘇我馬子が吉備国を欲したのも、そこが瀬戸内海の要衝だからです。
一方、宣化天皇の基盤の一つ、天草湾を見通せる河内国(肥後、熊本県)も、「その7:安曇族と天武天皇」に書いたように、天武天皇の殯(もがり)に際して、鹿児島湾や志布志湾を抱える「大隅・阿多の隼人」らとともに、最後にしのんだ「倭・河内の馬飼部造」の国で、海人族の拠点です。
天武天皇自身が「大海人皇子」と呼ばれるように、最も古い海人族(大海人)つまり海神(わたつみ)の流れを引く古来からの海人族につながる出自だからです。
大海人皇子(天武天皇)が、天智天皇の子「大友皇子(追諡:弘文天皇)」と戦った壬申の乱において、安曇族が最初の拠点(現在の大分県宇佐市安心院)にした豊国の大分君(おおきたのきみ)をはじめとする九州の豪族や、尾張連や尾張国司などの海人族にかかわる人々が味方したのも、そのためです。
白村江の戦いで大敗北し、戦争責任があるはずの中大兄(天智天皇)が、さほどときを経ずして天皇になれたのも、このような正統の背景を持つ「大海人皇子」を皇太子(次の天皇)にしたゆえです。
蘇我入鹿弑逆によって、九州「倭国」と畿内「大和国」との間に暗雲が立ち込めましたが、白村江の戦いの大敗北による国難によって、逆に九州「倭国」の大海人皇子と畿内「大和国」の中大兄は日本の独立を守るために手を結びます。
先に中大兄が天皇に就き、次に大海人皇子に皇位をゆずることで、挙国一致を図ったものです。
図らずも、倭王「アメノタリシヒコ」こと蘇我馬子の日本独立と統一の「縁結び」の意志は、中大兄と大海人皇子の連携によって再び引き継がれていきます。
もっとも、天智天皇は晩年、わが子大友皇子に皇位をゆずるために、大海人皇子を殺そうと策動しています。
それゆえ天武天皇は、そういった悲しいことが起こらないように、天智天皇の皇子らとも「吉野の盟約」を結び、さらには正統を明確にするために、『日本書紀』編纂を命じたものです。
One-Point ◆ 天智天皇には「権勢欲」はあっても、国家の大計をにらんだグランド・デザインがありません。しかし、古代から国を背負ってきた正統のヤマ族とウミ族(海人族)の血を引く天武天皇は、古来から頂点に立つ者が持つ特有の大らかさと、日本全体と歴史を考えた国家ビジョンがあります。「その1:新生日本と天武天皇」に書いたように、「天皇」への改号しかりです。また、冠位や姓(かばね)をはじめとする「律令制度」の整備もしかりで、さらには『日本書紀』編纂しかりです。そのような施策を次々と打ち出して近代的国家への礎を築いています。
天武天皇の后、持統天皇は、即位後、何度も吉野を訪れています。
天武なきあと、周囲には、迫りくる藤原氏の野望があり、皇太子だった草壁皇子にも先立たれて、かなり孤独感があったようです。
そういった中で、天武天皇の「和」の志を周囲に示すためにも、天武や草壁皇子と盟約を交わした吉野に、何度も行幸したものです。
持統天皇は、天智天皇の娘ですが、天武天皇への思慕は大きく、その意志を受け継いでいます。
伊勢神宮の建造を継承して完成させたこともそうですし、その伊勢神宮へ、誰もが反対した中で参拝したのも同様です。
そういった持統天皇に対して、天皇では初めて土葬ではなく火葬にされますが、天武天皇陵に共に埋葬されています。
日本は「単一民族国家」とはかぎりません。
とくに古代においては、人種や文化・宗教が入り混じった多民族国家です。
卑弥呼に代表される「日本原住」のヤマ族(ヤマト族)がいました。
ウミ族(海人族)もいました。
そこに大陸や半島また東南アジアから渡来の人々や移住した人々もいます。
日本の民族性は「魚宮」なので、12サイン(宮)すべてを象徴する民族が混合したような一面があるのです。
そこには、人種や文化の違いから、摩擦や争いといった対立が当然、生じます。
誰が天皇(大王)になっても、ほかの豪族から不満が出てくるのです。
そこで、古代の人々は、独自の統治形態を生み出しました。
それが古来から由緒のある日本原住(古参)で、大自然の「祭祀」を行なうヤマ族(ヤマト族)の代表を「和」の象徴として共立し、そのもとで豪族の王「連(むらじ)」らによる対等な立場で連合国家を運営するという統治形態です。
まさに現在の「議会制民主主義」のような統治形態です。
ご存じのように、それが女王「卑弥呼(ひみこ)」を嚆矢(こうし)とする第1次「倭国」(北部九州連合国家)で、これによって平和が訪れます。
このような日本独自の統治形態、すなわち「国体」を象わすサイン(宮)が「自由・平等・博愛」に通じる「水瓶宮」で、「和」の象徴である「天皇」のもと、人々は、対等や平等の立場で運営維持していこうとするものです。
それと同じような「和」の精神を備えていたのが、7世紀後半の天武天皇です。
さらにいえば3〜4世紀、武内宿禰でもある「応神天皇」で成長した応神天皇こと聖帝「仁徳天皇」で、その仁政から分かります。
それゆえ、日本の天皇の原点は、卑弥呼(台与)に始まり、応神(仁徳天皇)を経て、7世紀の天武天皇によって確立します。
天皇が有する「和」の精神は、天武天皇の「吉野の盟約」に見出すことができます。
「天武天皇紀-下」から抜粋
「(天武8年)5月5日、吉野宮(よしののみや)に行幸(みゆき)された。
6日、天皇は皇后および草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子(天智天皇の第2皇子)、忍壁皇子、芝基皇子(天智天皇の第7皇子)に詔(みことのり)して、「自分は、今日、お前たちと共に朝廷で盟約し、1000年の後まで、継承の争いを起こすことのないように図りたいと思うがどうか」といわれた。
皇子たちは共に答えて、「ごもっともでございます」といった。
草壁皇子尊がまず進み出て誓って、「天地の神々および天皇よ、はっきりとお聞き下さい。われら兄弟長幼合わせて10余人は、それぞれ母を異にしておりますが、同母であろうとなかろうと、天皇のお言葉に従って、助け合って争いは致しますまい。
もし今後この誓いに背いたならば、命は亡び子孫も絶えるでしょう。これを忘れずあやまちを犯しますまい」と申された。
5人の皇子は後をついで順次さきのように誓われた。
そうしたのち、天皇は、「わが子どもたちよ。それぞれ母を異にしているが、みんな同じ母から生まれたも同様に思われいとしい」といわれた。
そして衣の襟を開いて、その6人の皇子を抱かれた。
そして盟いのことばをのべられ、「もし自分がこの盟いに背いたら、たちまちわが身を亡ぼすであろう」といわれた。
皇后もまた天皇と同じように、盟いのことばをのべられた。
7日、天皇は宮に帰られた。」
One-Point ◆ 解釈は人によってあります。しかし、天武天皇の御世(673年〜686年)と重なって、日本の民族性を象わす「魚宮」に共鳴する海王星と、日本の国体を象わす「水瓶宮」に共鳴星する天王星が、約9年間(678年〜687年)もの長きにわたって三分(トライン=120度)をとり続けたことからも、日本の「無私の精神」(魚宮)と「和の精神」(水瓶宮)が融合したこの「吉野の盟約」は、ほぼ字義どおりにとらえて間違いありません。
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