宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―

連載 占星学と解く「日本成立史」
その10:天皇と武家政権
− 正統に戻った明治維新 −

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素戔嗚尊、蘇我氏、天武天皇の縁(えにし)が成した明治維新

↑ 源頼朝(1147-1199)とされる図。

●第1稿 : 2013年 5月 9日アップ




《お断り》
※ここに書いた内容は、新たな歴史の発見や、リーディングによって、断続的に修正することがあります。

《表記の統一》
※時代にかかわらず「大王」や「王子」は、基本『日本書紀』に準じて「天皇」や「皇子」に表記を統一しています。

日本史や「天皇」について記すとき、やはり「武家政権」に触れざるをえません。
平家や源氏が天皇家から分かれた臣籍降下によって成立したというだけではなく、自由民主主義の現代に至るまで「因縁」めいて、天皇を中心とした「朝廷」と武家による「幕府」が日本の国政を担ってきたからです。

《 素戔嗚尊と「草薙剣」 》

先回、「その9:大已貴命の本拠地尾張」でお届けしたように、最初に国づくりを行なったのは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と大已貴命(おおあなむちのみこと)です。
素戔嗚尊は、『古事記』が記すとおり「須佐の男」と書き、現在の山口県にかかわる出自です。
また、海人(あま)族で海神(わたつみ)の安曇(あずみ)族にもかかわり、素戔嗚尊や大已貴命の「本州国」づくりとともに、安曇族は各地に拠点を築いていきました。
安曇族が祀る三女神の原点が、素戔嗚尊の山口からみて周防灘の対岸にある「豊の国」つまり大分県北部の宇佐市安心院(あじむ)です。
ここは素戔嗚尊の十握(とつか)の剣から生まれた「海神三女神(のちに宗像三女神)」が、日神(ひのかみ)によって最初に降臨した地として、『日本書紀』の一書に記されています。
その素戔嗚尊の子、大已貴命が国づくりの終わり頃に本拠地としたのが、天然の港を抱える尾張です。
そのため、素戔嗚尊や大已貴命が国を平らげたときに用いた宝剣「草薙剣」は、現在、尾張の熱田神宮に奉斎されています。
ちなみに、大已貴命は、『古事記』でいう倭建命(やまとたけるのみこと)、『日本書紀』でいう景行天皇また日本武尊(やまとたけるのみこと)になぞらえられています。
同時に、『古事記』でいう建内宿禰(たけのうちのすくね)また『日本書紀』でいう武内宿禰(たけのうちのすくね)と建(武)の使い方が共通するように、実は、倭建命こと日本武尊は、建内宿禰こと武内宿禰にもなぞらえられていて、二人の業績を隠すために創作されています。
詳細は、次回「その11:日本武尊と武内宿禰」で記します。
「天皇と武家政権」がテーマの今回にもかかわらず、なぜ、素戔嗚尊や大已貴命にかかわる「山口」「周防灘」「草薙剣」「尾張」などを持ち出したのか、読みすすめるうちに明らかになります。

One-Point ◆ この連載をすで読まれている方には、同じお話で申し訳ありませんが、WEBページは単体ではなく、ネット全体の中の1ページでもある性質上、はじめてアクセスされた方はもちろん、上述をおさえておかないと、「天皇と武家政権」の本旨に関係なくなるため再掲しています。


●祟るゆえに崇め祀る

「出て示す」と書いて
祟る たた-る。
「山を宗(むね:中心)」と書いて
崇める あが-める。

「祟る」ゆえに「崇める」、また「崇拝する」と考えれば、この2つは同じ表裏一体になります。
古代天皇の諡号(しごう)の「崇」は、そういう意味で使われているのです。
でないと、「祟るとは何事だ! 誰が祟らせるようにしたのだ!」と、ますます祟られてしまいかねません。

《 「祟り」と「崇める」 》

宝瓶宮占星学からみたとき、国王やトップなど「権力の頂点」は「冥王星」にかかわります。
一般に、月が象わす「一般大衆」は、ひどい仕打ちを受けたとしても、恨みは小さく、感情的なものにとどまるのがふつうです。
しかし、素戔嗚尊や大已貴命のように、最初に国づくりを行ない、国の頂点に立った場合、つまり「冥王星」の象意を最大限に持つ人物の場合、その座を不当に奪われたり、何ら正当な理由もなく殺されたとき、無念やその非道に対する怨念は通常、すさまじいものになります。
平安時代、天皇でありながら、四国に島流しされ、その後も無碍に扱われた第75代「崇徳天皇」が、日本の「大怨霊」と呼ばれるようになったのは、その一例です。
ましてや、最初に国づくりを行ない、よく治めていたにもかかわらず、国・立場とも非道に奪われたときの怨念は、比較できないほど大きくなります。
その祟(たた)りを鎮めるためには、崇(あが)めなければなりません。
「祟る」と「崇める」は、古代日本においては紙一重、同一です。
それゆえ「崇神」や「崇徳」などのように諡号(しごう)をおくられています。
他にも、6世紀末、天皇でありながら弑逆(しいぎゃく、しぎゃく)された第32代「崇峻天皇」も同様です。
その元祖は、第10代「崇神天皇」で、崇神が祀った「大物主神(おおものぬしのかみ)」こそが「崇神天皇」ご自身であることが『日本書紀』の歌をよく読めば分かります。
大物主神は、またの名を大国主神(おおくにぬしのかみ)また大已貴命といいます。
このような「祟り」は、恨みが解けるまで続きます。
時空を超えて続くのが「祟り」の性質だからです。
そのため、皇統の「部外者」でありながら、実質上、政権を奪った藤原氏は、平安時代、祟りを恐れて「出雲大社(いずもおおやしろ)」を建造させています。
歴史書に「自分たちが祟られた」と書くことは、決してありません。
それゆえ誰が提唱して出雲大社を建てたのか、文字で明らかにされることはありませんが、現在の換算で100億円以上もの経費をかけて、当時、数十メートルもの高さの巨大な神殿を築くのは、「国家的プロジェクト」でしかなせません。
権力と財政を握っていた藤原氏でなければできないのは歴然です。
「建造の理由が分からない」とされるのも、その証拠の一つで、国づくりを行なった素戔嗚尊や大已貴命、また7世紀はじめに九州「倭国」を畿内「大和国」にゆずり、縁結びをした蘇我大王家を祀るために出雲大社を築いたのは、決して「善意」からではなく、恐ろしいほどの「祟り」があったからにほかなりません。
そのような素戔嗚尊や大已貴命や、また蘇我第王家の「怨念」が解けたのは、「壇ノ浦の戦い」のときで、名実ともの武家政権が誕生したときでした。
1185年、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)によってです。

One-Point ◆ 『日本書紀』に、「大和一国史」や「万世一系」という大義名分のもと「まさか!」と疑う大胆な記述をした箇所があります。人の好い謙虚な日本人は、慣れないとダマされてしまうのですが、「白髪三千丈」や「何でも自分の国がイチバン(起源)」とする国柄の人々も『日本書紀』の編纂にかかわっていたためです。なので「記紀」を読んで何でも高句麗や新羅や百済など半島や大陸が、由来だと判断すると、自分のことより他国の事情を鑑みる「日本人らしく」はあるのですが、史実を見失ってしまいます。


●草薙剣が隠れた「壇ノ浦」

三種の神器の一つ、素戔嗚尊の宝剣「草薙剣」は、平家の滅亡とともに、山口と九州の間、関門海峡の「壇ノ浦」の海に沈んで見つかりませんでした。
ここは素戔嗚尊が行き来したゆかりの場所です。
結局、天皇から、武士に政権が移ることで、かつて国を奪われた怨みを晴らしたことになります。
素戔嗚尊が国を治める御璽(みしるし)とした草薙剣は、それゆえ「ふるさとの海」に帰っていったのです。
ちなみに、沈んだ「草薙剣」は、形代だとされています。

《 源頼朝と「草薙剣」 》

平安時代、藤原氏の「わが世の春」によって、天皇は傀儡(かいらい)以下に落ちていきます。
彼らが賢いのは、自らは「天皇」になろうとしなかったことです。
「権力」と「土地財産」さえ自分たちに集中させてしまえば、そのほうが「責任」は名目上のトップである天皇に着せられます。
失敗しても、また意のままに操れる天皇に替えればよく、次々と傀儡を生み出せるからです。
その藤原氏も、平家の台頭によって地位を奪われます。
そうして生まれたのが平家の血を引く幼帝、第81代「安徳天皇」です。
ご存じのように「おごる平家は久しからず」、平家は一代にして天下に立ち、一代をもって滅びていきます。
まさに「冥王星」の象意が現われた最悪パターンを平家にみることができます。
そういった点でも、昨年2012年の大河ドラマ「平清盛」は秀逸でした。
その平家も、結局、源氏に滅ぼされます。
その最期は、「壇ノ浦」の戦いで源義経に敗れ、平清盛の妻・時子は幼帝「安徳天皇」と「三種神器」を抱いて、周防灘へと入水します。
神鏡「八咫鏡」は海に浮いていて見つかりましたが、宝剣「草薙剣」はついに見つかりませんでした。
平家を滅ぼした戦勝を誇らしく報告した源義経は、逆に源頼朝から激しい叱責にあいます。
なぜでしょうか?
答えは、三種神器「草薙剣」を失ったからです。
なぜなら、三種神器があれば、完全に天皇や公家ら朝廷から「政権」を文句なく奪取できるからです。
その読みができるかできないかが、単なる武術者・源義経と、武家の棟梁たる政治家・源頼朝の違いでした。
一方、「草薙剣」にしてみれば、素戔嗚尊の怨みを晴らして「ふるさと周防(山口)の海」に帰っていったことになり、「怨恨」が解かれたことになります。
源頼朝の目的は、平家を滅ぼすこと以上に、三種神器を手に入れることで、特に、宝剣「草薙剣」を取り戻すことでした。
なぜなら、源頼朝は尾張の熱田で生まれていたからです。
頼朝の母・由良御前は、草薙剣が祀られていた尾張「熱田神宮」の大宮司の娘なので、当然、知っていたのです。
素戔嗚尊と大已貴命の怨念は、母「由良御前」と子「源頼朝」の手をかりて、奪った天智系天皇や藤原氏から、政(まつりごと)を自らの手、武家政権へと移すことで、かつて国を奪われた積年の怨みを晴らしたことになります。

One-Point ◆ 源頼朝がどこまで素戔嗚尊や大已貴命を意識していたのかは分かりません。しかし、歴史(生命の流れ)は、ときにこのような巡り合わせを起こします。これは序章です。これ以降、日本の国政は天皇や朝廷から、完全に武士の手にゆだねられていきます。その代表が、尾張を出自とする織田信長であり、豊臣秀吉です。また尾張の隣国、三河の徳川家康です。


●『大日本史』

画像は巻之一・本紀第一。
源光圀(徳川光圀)修。
[25.7cm×17.5cm]
後小松天皇まで、紀伝体で記された歴史書です。
徳川光圀は、1657年に歴史書編纂のために江戸駒込の水戸藩中屋敷に場を設けます。
のちに小石川の上屋敷に移し「彰考館」と名付けています。
『大日本史』は、順次、刊行され、最終的には明治39年(1906年)に完成しています。

《 『大日本史』と「儒教」 》

他のページにも書きましたが、必要上、触れておきます。
江戸幕府を開いた徳川家康は「歴史編纂」を行ないます。
天下の副将軍、水戸の黄門さまこと水戸藩主の徳川光圀が手掛けた『大日本史』がそれです。
全397巻226冊におよぶ『大日本史』が完成したのは、実に約250年後、明治になってからでした。
しかし、この『大日本史』と、家康が長期安定政権を築くために奨励した「儒教」によって、後に大政奉還(明治維新)が起こります。
ペリーの黒船来航も対外的な要因の一つですが、明治維新を方向づけた「思想的バックボーン」は『大日本史』と「儒教」なのです。
理由を書きましょう。
『大日本史』を編纂、つまり日本史を解明していく過程で、ある事実に気づきます。
理由はともかく、「天皇」をないがしろにした人物また一族は、ことごとく滅びているという事実です。
これは宝瓶宮占星学の星のディレクションからも同じことがいえます。
時代の「天運」また日本の「天運」が、天皇とともにあるためです。
理由が分からないために、一般に「天運」といいますが、宝瓶宮占星学からはハッキリしています。
「時代の流れ」また「地域(国)の特性」とマッチしたところに「天運」は訪れます。
一般的にいえば「天の時」、「地の利」、「人の和」です。
これまで約2,000年間の双魚宮時代はもちろん、今後の宝瓶宮時代においても天皇が「和」の象徴であるかぎり、星のディレクションとマッチして、天皇と日本の「天運」は続きます。
その詳しいご説明はともかく、一方、「儒教」の特性は「忠孝」です。
旧きを尊び、またお上こと殿様や将軍に「忠義」を尽くし、親や目上を大切にして「孝行」を尽くすことで、「体制維持」を図るには、もってこいの思想です。
それゆえ徳川家康は、天下をとったのち、儒教を奨励したのですが、『大日本史』の編纂によって、日本の本流が「天皇」であることが、武士や世間に次第に知れわたっていきました。
幕末に徳川幕府の権威がうすれ、黒船の国難に際したとき、忠孝の第一に天皇家や朝廷がクローズアップされ、「勤皇派」や「尊皇攘夷」が生まれるバックボーンとなったのです。

One-Point ◆ 源頼朝以降、約700年にもわたって立場を失ってきた天皇また朝廷が、江戸時代末期になって再び注目されるようになりました。対外的な出来事の歴史のみでは見えてこない事実です。革命に「思想」や「宗教」が伴うのは、双魚宮時代の常識(パターン)なので、当然そうなります。ちなみに宝瓶宮時代は、「精神意識」によって新しい時代がもたらされます。「天皇」の「和」の精神はその軸の一つです。


●「錦の御旗」は2つ1組

天皇から「朝敵討伐」の証として官軍の大将に与えられる「錦の御旗」。
「日之御旗」と「月之御旗」の2つ1組です。
後鳥羽上皇が承久の乱(1221年)のときに与えたのが最初だといわれています。
そういえば、安心院の「三女神社」などの鳥居の神額にも、太陽と月が1セットで彫られています。

《 明治天皇の登場 》

「勤皇」も「尊皇」も、天皇を尊び、忠勤に励むことです。
「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」は「尊王攘夷」とも書きますが、意味は同じと考えてかまいません。
攘夷(じょうい)というのは、外国など夷人(いじん)を払いのけて、受け入れないことをいいます。
「大政奉還」というのも、政(まつりごと)を天皇に還(かえ)すという意味で、「大」すなわち「先の」がつくため、かつて天皇が「政(まつりごと)」を行ない、また「大政」を担っていたことを表わします。
結局、長州藩(山口)は、「錦の御旗」を立てて、「天皇」の勅命ここにありと示し、約300年続いた幕府に立ち向かいます。
江戸幕府の最後の将軍、第15代徳川慶喜は、水戸藩の生まれで、のちに一橋家の世嗣となるまで、水戸で教育を受けています。
当然、『大日本史』によって、「天皇」の何たるかを知っています。
「錦の御旗」が長州側にあることを知ると、天皇に刃向かった「逆賊」と末代まで呼ばれてはかなわないと、天下の将軍であるにもかかわらず逃げています。
こうして明治維新が成ります。
明治天皇は、まず「崇徳天皇」の御霊を京都へ帰還させて、命日である8月26日(旧暦)に宣命を読み上げて鎮魂し、その翌日27日(1868年10月12日)に即位しています。
また、天武天皇の后、持統天皇が約1,000年前、周囲の反対を押し切って参拝して以来、どの天智系天皇も訪れなかった伊勢の神宮を親拝(しんぱい)しています。
さらに、天皇でさえ拝謁できないはずの三種の神器の一つ、神鏡「八咫鏡」を天覧になっています。
この事実は、「明治天皇」によって、天照大神を皇祖とする「正統」に戻ったことを意味します。
また、天照大神の弟、素戔嗚尊にかかわる須佐がある山口県の長州藩など、かつての「倭国」、「薩長土肥」によって明治維新、つまり「大政奉還」が歴史的に成された事実も、古代の「本流」に戻ったことを意味します。

One-Point ◆ 「薩長土肥」のうち、薩摩藩(鹿児島)は、天武天皇の殯(もがり)にあたってしのんだ隼人の国です。長州藩(山口県)は、素戔嗚尊にかかわり、卑弥呼の女王国「倭国」ともゆかりの国です。土佐(高知県)は、詳しくは分かりませんが、太平洋に広く面していることから、海人族とのかかわりが深いでしょう。肥後藩(熊本県)は、天武天皇の殯(もがり)にあたってしのんだ倭の河内があり、また蘇我氏(武内宿禰)とも関係のある国です。このように、古代日本の国づくりにかかわった国々によって、大政奉還が成され、近代日本の幕が明けているのです。



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