地球を生命体にし、日本の美を姿づくり、人間の生存になくてはならない水。
そんな水だけど、実は怖い。
ふだんはまったく思わないけどね。
水道の蛇口から流れ出る水も、お店で飲むウォーターも、とてもありがたく、人間に大切なものってご存じのとおり。
水が怖いなんて思わないのが通常。
ボクの実家は川っぷちに建っているから、子供のころから水に親しんでいた。川の瀬音を子守唄代わりに育ったんよ。
親戚の人が家に泊まりに来ると、翌朝必ず、「川の瀬の音が気になって眠れなかった…」と言う。
そういえば、せせらぎというには大きな音がずーっと続いている。そんな音、気にもしたことがなかったから驚いた。
朝夕、日常茶飯事に生活していると、その存在さえ気にならないし、気づかないらしい。
その川も、梅雨時など大雨が続いたりすると様相を一変させる。
ふだんは中州を避けるように底を流れる清流は、対岸まで100m以上はある川幅いっぱいにすごいスピードで渦巻いて流れていく土色の水に姿を変える。
ドードーと音をたて、ときには大木をも押し流しながら川下へ次々と消えていく。
堤防を越さんばかりに満ちたときは、特に怖い。
実際、52年前に堤防をはるかに越える大洪水を経験した町だ。
今もその高さを示す記念碑に身長以上の高さに印が残されている。
ご近所の集まりでは、そのときの大洪水の話がいまだに話題になる。
大雨が続くと近所の人が心配して、川っぷちまで見に来てた。
まあ、今は上流にダムができたから、ずいぶんと安心できるけどね…。
でも、本当に怖いのは、川っぷちに立つこと…。
視界いっぱいに流れていく濁流を見ていると、平衡感覚を失う。
立っていられなくなる。体だけが酔ったように傾いてフラッとなってしまう。
バランス感覚を失いやすいお年寄りなどは、そのまま濁流に吸い込まれるかもね…。
落ちたが最後、どっちが上なのか下なのか渦巻く水流に翻弄されて、水面の方向さえも分からなくなる。
息が続くうちにフッと浮き上がればよいのだけど、それも濁流の中ではつかの間だ。
分かります?
ふだん泳いでいる穏やかな川でも、大きな岩の後ろなどは、けっこう渦巻いていたりする。
そこに呑み込まれただけでも同じようになる。大洪水の濁流はその比ではない!
水の力って、とてつもなく強い。
2006.09.27
え〜と…、孫子の兵法にも「水」に関する記述があるので、これもご紹介しときましょう。
「宣誓! 我々はスポーツマン・シップにのっとり、正々堂々と…」、誰でも知っている選手宣誓のことば。
この「正々堂々」というのは、孫子の「正々の旗、堂々の陣」からきている。
辞書には「旗波がよく整い、意気盛んな陣列。勢いが盛んな軍隊の形容」と紹介されているが、これじぁ、読みが浅くないか?
ボクはこう考えている。
「正々の旗」とは、たとえば孔子が開いた儒教でいえば「大義名分」のこと。つまり、兵を動かすには誰もが納得する理由が必要ってこと。
正当な戦いの理由があれば、兵士たちは戦いに際してモチベーションが上がる。そういった勢いが戦いに必要だということは、孫子を読めば分かる。
「自分たちは正しい戦い(ビジネス)をやってるんだ」という自負や正義心。
しかし、現実の戦いはそれだけでは弱い。「堂々の陣」が必要だ。
誰にも負けない陣構え。兵士の質や数、高性能の武具、優れた戦略戦術といった陣容や態勢。
この「旗」と「陣」がそろわないと、「戦わずして勝つ」には近づけない。
もう一つ、「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」といった情報。この三つが必要だ。
この三つは、宝瓶宮占星学の数理法則が解き明かした宇宙の基礎数3とまったく同意。これや情報は今回の話からずれるから置いといて、「堂々の陣」というポテンシャル(潜在力)、これを孫子は「積水」にたとえた。
セキスイ、聞いたことありますよね。積水化学工業や積水ハウスなどセキスイグループの「積水」。
満々とたたえられた水、ダムの水ってとこ。蓄えられた万全の状態が「積水」。この会社名も孫子からとっている。
孫子がいうには、「勝者の戦いや、積水を千仞(せんじん)の谿(たに)に決するがごとき形なり」と、いざ戦いとなった場合、技術や数だけでなく「勢い」が勝敗を決めると見抜いた。
同等の実力や戦力なら、確実に勢いのあるほうが勝つ。
また、戦力で下回っていても勢いがあれば、強者を押すことさえ可能だ。
士気の問題、モチベーションを高くして戦いに臨むという心の要素。
そう、「正々の旗」というのは、この勢いのベースになる「積水」に通じている。
孫子はまた、この勢いのことを「激水」にたとえた。ゲキスイ、激しい水。洪水の勢い。
アインシュタインのE=mc2乗を持ち出すまでもなく、ふだん柔らかな空気や水も、量とスピードが加われば、そのエネルギーは信じられないくらい大きくなる。
鉄の塊りであるジェット機が空中を飛ぶのも、洪水が家や車や巨岩をも押し流してしまうのも、このスピードゆえ。
それを孫子は、「激水の疾(はや)くして石を漂わすに至るは勢いなり」と書いている。
孫子がいわんとしたことは、ふだん満々とたたえられた「積水」が、いったん事あるときに一気に放たれて「激水」となって勝つということ。
「正々の旗、堂々の陣」は、「積水」や「激水」と対になっていることがお分かりでしょう? これは戦いだけでなく、現代のビジネスに当てはめて読み下してみると面白い。
2006.09.21
孔子といえば、儒教の祖。
儒教は、世界四大宗教の一つとされている。
その孔子は、君子(立派な人)に必要なものとして、「孝・礼・仁・信・忠…」を説いた。
日本化された「仁・義・礼・智・信…」とは、順番が違うんだよね。
本場中国では「孝」が一番。
単に親孝行というだけでなく、目上(年長者)を敬うという広い意味もある。
また、孔子は「温故知新」、ご存じ「古きをたずねて新しきを知れば、もって師となるべし」と論語で説いている。
儒教は、なぜか古いものを尊ぶんだよね。(なぜかは後日、機会があれば…)
その流れをくむ荀子(じゅんし)は、「水は方円の器にしたがう」といった。
荀子がいうには、器(うつわ)が方形(四角)であれば水は四角く溜まり、器が円(丸)ければ水は丸く溜まる。
同じように、人は善くも悪くも、周りの交友関係や環境によって左右されるので、教育というものが大切なのだと、方円の形をした手水鉢(ちょうずばち)を示して塾生たちに教えた。
荀子の捉え方は、水は、丸にも四角にも形を変えるものなので、環境が大事だってことだよね。
この「水」の捉え方は、老荘(老子や荘子)とはまったくの逆。
老子は、水というものは環境に対応して柔軟に形を変えながら、しかも万物を活かし、低きに流れて自らも生き長らえる、もっとも真理に近い存在としている。どちらがホント、だと思います?
ボクはこう考える。水は方円の器にしたがったふりをしてるだけ…。いっときの間、そう見えるだけ、ということ。
だから、手水鉢の水も、口や手をきれいにした後は、汚れとともに下水へと流れていく…。
水は、決して器の形に固定されているわけではない。
こう考えていくと、孔子の儒教、少なくともその流れには一見当たり前そうに思えても、実は中途半端な決め付けがあることが分かる。だから、儒教国家などと威張らないこと。
自らの国の底の浅さを示していることにならない? だって、国内の道義が乱れるほど儒教の徳目が重要になるんだもの…。
中国は奥が深いから、儒教も、道教も、今では共産主義も、いろんな思想が並立している。
日本は、儒教も、仏教も、西洋科学も、何でも呑み込んで、日本風に独自に変えてしまう。日本は水に恵まれた「水の国」だからね…。
2006.09.10
ご存じ、お酒の銘柄…。いやいや、出典は老子。
「おいこ」って読まないでね、「ろうし」。
まあ、老子というのは、老師ってこと、老先生という意味だね。え? 年老いた先生のことかって?
またまたぁ。『史記』には老子は李という人だと書かれている。一方で老という人だともいわれている。
よく分かんないんだよね。
同時代の孔子は、はっきりしているけどね。
孔子の教えは儒教として、日本や韓国にも広く定着したから知っている人は多い。
時代劇の寺子屋のシーンなどでも目にするね、『論語』を勉強しているところ。
「子(し)のたまわく…」なんて、子供たちが唱和している…。
その徳目が、日本流にいえば「仁義礼智信(じん・ぎ・れい・ち・しん)」、「忠孝悌(ちゅう・こう・てい)」を加えることもある。
人には、仁や義、礼節、忠臣や親孝行が必要だよってこと。
非常に分かりやすい当たり前の教えだから、ボクも若い頃は感化された。
しかし、老子の「大道、廃(すた)れて仁義あり」には驚いた。
老子の心は、「仁義…」なんて徳目が必要になってくるのは、そもそも世の中が乱れているからだ。
世の中が正しく治まっていれば、「仁義…」など説く必要がないんだと。
本来は、当たり前に行なわれているべきことだから、必要とされるのはおかしいってこと。
いわば、孔子の教え「儒教」に真っ向から反論したかっこうにも取れる。
また、老子は「上善如水」とも教えた。
誰でも、強いもの、硬いもの、勇壮なもの、つまりは男性的なものが、世の中を制すると考えるのだけど、老子は違った。
弱いもの、柔らかいもの、軟弱なもの、つまりは女性的なものが、実は世の中を支えていて最終的に生き残るので素晴らしいんだと。
その象徴が「水」で、すべての生きとし生けるものは、水なしでは生きていけない。水は万物の生命を支えながらも、自己主張せず自然で低きに流れていく…。
そういった無為自然の柔軟さが、真理「道(タオ)」に通じるのだというのが老子の教え。
老子の思想は、頭の発想を切り替えないとなかなか難しい。理論で考えても理解できないことがある。
直感のほうが、意外と理解できたり、真理に到達しやすい。これって、魚座宮の持つ最も素晴らしい特性なんだよね。
理論・理屈を超えて、いきなり物事の本質を直感的に悟ってしまう魚座宮(海王星)的特性を正しく捉えるのは、頭で考えずに心じゃないとね。
孔子の教えは、男性的で、単純明快で、科学的で、人間社会では当たり前だけど。
老子の教えは、一見、女性的で、複雑難解で、直感的で、逆説的だけど、宇宙の真理を突いている。
ボクは、そういった老子の教えが好きになった。
なかなか、老子の教える「無為自然」には到達できないけどね。非常に老熟した教えだ。
老子って、意外と「老熟した教えの先生」で正解かもね。
2006.09.07