宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
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最高の権力には、凄まじい怨恨と、激しい闘争を伴います。
歴代の天皇には、それを鎮める徳性と、強い克己心が必要です。
では、なぜ天皇制は奇跡的に存続したのでしょうか?
↑敗戦後、復興にむけて全国を御巡幸される昭和天皇。
●第1稿 : 2011年 3月 8日アップ
「日本は何座宮?」と「女王卑弥呼と神武天皇の建国」に続く、宝瓶宮占星学から日本を読み解く3回目です。
世界的にも稀有な日本の特徴は、およそ2,000年近くも続く「天皇」の存在です。
他国の専制君主と違い日本の天皇は、宝瓶宮時代の平和的かつ友愛的な立場の規範やシンボルともなりえます。
「日本は何座宮?」に書いたように、日本の国体は「水瓶宮」です。
天皇制は「水瓶宮」で象わされるからです。
なぜ天皇制が水瓶宮なのかは、「女王卑弥呼と神武天皇の建国」をご一読ください。
関心のある方にしか読まれないお話を続けます。
「天皇」という称号は、「日本」という国号と同じく、7世紀から使われるようになったというのが通説です。
それまでは、「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。
なぜ「大(公)王(おおきみ)」なのかは、卑弥呼による女王国や、その後の統一大和の成立が、各部族の「王」たちによる諸国連合だからです。
部族の「王」たちの上に立つという意味で、「大王(おおきみ)」、または「大公王(おおきみ)」です。
分かりやすくするために、独断を交えて続けます。
大和地方をまとめた最初の王は、崇神天皇(ハツクニシラス・スメラミコト)です。
その後、九州に生まれた応神天皇(実在の「神武天皇」)が東征し、女王国を発展的に解消して、統一大和を建国しました。
それゆえ実質上の初代天皇は、「応神天皇」たる人物です。
「応神天皇」は、実は次の「仁徳天皇」でもあり、疲弊した民の生活が回復するまで3年間、税を課さなかったことが記録されています。
「初代天皇(大王)」による、このような仁政(徳政)によって、天皇による「和の支配」は、当時の人々の支持を受け、天皇の御世が続く原点となっていきました。
One-Point ◆ 『古事記』や『日本書紀』に記されている初代天皇は、ご存じのように「神武天皇」です。初代なので10代崇神天皇と同じように、和号は「ハツクニシラス・スメラミコト(初めて国を治めた天皇)」とされています。「神武天皇」の即位を紀元前660年に設定し、日本の紀元としたのは、中国に対抗するためです。
●統一大和が「応神天皇」から始まったのであれば、それまで大和を治めていた最初の天皇「崇神天皇」とは、いったい誰なのでしょうか?
答えは、出雲に祀られている「大国主命(オオクニヌシ)」であり、大巳貴神(大穴牟遅神:オオアナムジ)です。
この場合の「大」は、「先の」を意味します。
例えば「大兄皇子」といえば、長男など皇位継承資格者をさすことからも分かります。
古代、「言葉」は重要な意味を持っていました。
『日本書紀』以前の天皇名、漢風諡号も当然、重要な意味を持ちます。
「崇神天皇」は、卑弥呼に連なる一族で、古神道に関わり、物部氏の祖先に通じる存在です。
「崇神」とは、卑弥呼同様、「神」を崇拝する一族を意味し、同時に「祟る神」の意味を持ちます。
要は、女王国に連なる王で、応神天皇(神武天皇)に「国を譲った(奪われた)」人物です。
ちなみに、蘇我氏は、応神天皇に関わる一族で、後年、仏教導入をめぐり物部氏や中臣氏と論争し、その後、物部氏と戦って物部宗家を滅ぼし、実権を手にします。
歴代天皇の系譜である「皇統譜」によれば、15代応神天皇の後、25代武列天皇をもって子孫が途絶えると、応神天皇の5代目の子孫を探し出してきて跡を継がせます。
26代継体天皇です。
聖徳太子の父・31代用明天皇からわずか5代前のお話です。
その用明天皇の父・29代欽明天皇の御世には、蘇我氏はすでに天皇の外戚となっています。
応神天皇以来、もともと天皇とは深い関わりを持つ蘇我氏です。
仏教容認をめぐる戦いで、蘇我馬子(そがのうまこ)は587年、卑弥呼に通じる一族の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼすと、天皇をしのぐ権勢を手にしていきます。
その58年後の645年、天皇や官僚が居並ぶ前で起きた大事件が、後の38代天智天皇、当時の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、後の藤原鎌足、当時の中臣鎌足(なかとみのかまたり)による蘇我入鹿(そがのいるか)殺害事件です。
ご存じ「大化改新」の始まりとなる乙巳の変(いっしのへん)です。
これによって、政治の実権が一時は天皇に戻りますが、今度は藤原鎌足やその子、藤原不比等(ふじわらのふひと)ら、藤原一族によって、天皇は名ばかりの傀儡(かいらい)に戻っていきます。
その後、鎌倉幕府など武家政権が勃興し、鎌倉時代に引き続き室町、安土桃山、江戸時代と、武士が権力を握り、天皇が政治の表舞台に立つことはありませんでした。
結局、天皇が実権を握ったのは、大王(おおきみ)であった初期の頃と、初めて「天皇」と呼称された頃の天智や天武天皇あたりと、鎌倉幕府滅亡後の1333年、後醍醐天皇による「建武の中興(新政)」のわずかの期間だといえます。
One-Point ◆ 平安時代、実質上、政治権力を牛耳った藤原氏による専横の時期はもちろん、その後の武士による政権の時期、天皇はたいして金もなければ権力もない、名ばかりの権威として存続しました。「支配・被支配」の双魚宮時代に、他の国のように天皇が時の権力者によって滅ぼされたり、殺されることもなかったのは、歴史上ありえないことです。
●当時、東アジア文化の中心は、中国でした。
その中国には、世界四大文明の一つ、黄河・長江文明が紀元前に起こるなど古い歴史を持っています。
7世紀、日本は、『古事記』や『日本書紀』を編纂するにあたって、初代天皇を「神武」とし、その即位を、紀元前660年の元旦に定めて建国としました。
一方、高麗(韓国)では、12世紀、始祖を「檀君」とし、即位を紀元前2333年に定めて建国とし、中国や日本に対抗しています。
儒教の祖・孔子は、紀元前6〜5世紀の人ですが、当時の中国の王たちには受け入れられませんでした。
儒教の教えがあまりにも理想主義でロマンであるために、現実主義でリアリストの民族性を持つ中国人とは合わなかったのです。
むしろ、韓国や東南アジアなど、周辺国に受け入れられていきました。
天下分け目の「関が原の戦い」で1600年、東の徳川家康が勝つと、15年後の「大阪夏の陣」で豊臣家は滅亡します。
一向宗に悩まされた家康は、支配体制を強化するための思想として、儒学(朱子学)を採用し、広く奨励します。
例えば、「忠孝」の教えが下克上を「悪」とみるために、自らの体制の存続に都合がよかったからです。
かつて、天智天皇の子、弘文天皇を滅ぼして、天皇になった天武天皇は、自らの正統性を図るために『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じます。
しかし、完成したのは天智天皇の系統に戻った元正天皇の御世でした。
同様に、豊臣政権を滅ぼした徳川幕府では、そのお膝元、天下の副将軍、水戸藩の徳川光圀(1628-1671)によって水戸学(朱子学)による後の『大日本史』を編纂しはじめます。
もちろん、徳川政権の正統性を図るためです。
しかし、『大日本史』が完成したのも、徳川から天皇に大政が奉還された後、明治39年(1906年)のことでした。
この『大日本史』の編纂は、歴史のアイロニーを生みます。
編纂当時は、すでに1630年を過ぎ、宝瓶宮時代の影響圏に入っていました。
彼らが儒学である水戸学(朱子学)に基づいて日本の歴史をひもといていくうちに、日本における政権の正統性が、「天皇」にあることが明白になっていきます。
同時に、「天皇」の立場や正統な皇統をないがしろにした権力者は、さほど長く時をおかずに滅びている歴史的な事実があることを悟ります。
結果、皮肉にも、儒教や水戸学(朱子学)の教えが、「尊皇派」や「勤皇党(勤王党)」を生み、宝瓶宮時代の流れとともに、倒幕や明治維新につながっていくのです。
One-Point ◆ 考えてみれば当たり前のことでした。「温故知新」の儒教(朱子学)は、古い権威や理想を尊びます。日本統治の原点は、平和をもたらした卑弥呼や天皇(大王)にあります。1630年から宝瓶宮時代の影響圏に入ることによって、時代の波動(運勢)は、次第に水瓶宮の象意を持つ「天皇」と共鳴しはじめていました。「支配・被支配」の武士から、「和」の原点である天皇へ時代の運勢は移りつつあり、「尊皇」や「勤皇(勤王)」とともに「大政奉還」や「王政復古」は歴史の必然であったのです。
●正統である天智天皇の子、弘文天皇から政権を奪った40代天武天皇の系譜は、48代称徳天皇をもって絶えます。
結局、天智天皇の孫・光仁天皇に皇統は戻っていきます。
室町幕府3代将軍・足利義満は、中国から「日本国王」の封号を得るなど、天皇の大権を我がものにしようと目論見たようですが、急病により満49歳で死去します。
また、自らが「神」となり、天皇の権威を凌駕しようとした織田信長も、本能寺において謀反により満48歳で滅びています。
他にもありますが、万世一系かどうかはともかく、天皇の「正統」は、何らかのかたちで続いてきました。
●昭和天皇の出生時の太陽と、トランシットの冥王星、そして天皇制を象徴する「水瓶宮」の位置関係。
「坂本龍馬の出生時間と斬殺」にも書いたように、1867年、龍馬斬殺の約1か月を相前後して、「大政奉還」の勅許と、「王政復古」の大号令が発されます。
政治の大権を徳川から天皇に戻す宣言です。
このとき、徳川将軍家に降嫁した和宮(かずのみや)の兄、孝明天皇は、すでに同年1月に崩御しており、明治天皇が践祚(せんそ)していました。
ときに明治天皇14歳。
翌1868年に即位されますが、15歳の天皇に政治権力などあるはずもありません。
結局、かつての歴史と同じように、薩長など明治の元勲たちに担がれた神輿(みこし)同然の「天皇」でした。
時は変わって、昭和天皇が即位した1928年直後の1930年に発見された冥王星は、1938年〜1939年から獅子宮を運行しはじめます。
獅子宮2度の位置、1939年9月1日に始まった第二次世界大戦は、獅子宮5度の位置、1941年12月8日に日本も戦争への参戦を選択します。
太平洋戦争の始まりです。
天皇制を象わす「水瓶宮」からみれば、当時、権力を象わす冥王星がトランシット(経過)する「獅子宮」は、衝(オポジション=180度)の対宮でした。
昭和天皇は「牡牛宮」8度の太陽を持つことから、天皇の御意にかかわらず、否応なく巻き込まれたことは否めません。
さらには、冥王星が「蠍宮」のど真ん中、15度の位置にあって「宝瓶宮時代のビックバン(「宝瓶宮時代の根拠
」ご参照)」を迎えたまさにその時、星の経過の詳細は省きますが、1989年1月7日朝、ついに昭和天皇は崩御されます。
宝瓶宮時代の正式な始まりとともに、日本は新しく平成の御世を迎えていくのです。
One-Point ◆ 敗戦直後、日本各地を巡幸された昭和天皇は、祭り上げられた現人神(あらひとがみ)雲上人の天皇から一転、一般国民と親しく言葉を交わすなど、宝瓶宮時代にふさわしい新たな「人間天皇」を築き上げます。敗戦後、昭和天皇自らが一からスタートの出発をなされたことによって、日本復興と平和の精神的支柱として、大きな役割を果たされたことは、星をリーディングしても間違いありません。その思いは平成の今上天皇にも受け継がれています。
●日本の天皇の特徴は、「祭祀主」でもあることです。
第一に優先して行なわれる祭祀は、毎朝や毎旬、また年始に行なわれる拝礼です。
他にも多々、拝礼は「宮中祭祀」として行なわれています。
それらの祭祀の基本は、国家国民の繁栄と自然や多くのご先祖様への「祈り」ともいえる拝礼です。
このような「君主」は、世界に例をみません。
なぜ、天皇がこのような祭祀を行なうようになったのかは、「女王卑弥呼と神武天皇の建国」からご推測できるように、女王国の卑弥呼、さらには2代目台与を嚆矢(こうし)とします。
そこに、「和の支配」の原点があるからです。
厳密には「ヒメヒコ制」といわれる「祭祀」と「権力」の分担と協力です。
日本人の民族性「魚宮」と、日本の国体天皇制の「水瓶宮」は、天皇において体現されているのです。
統一大和・日本が築かれていった双魚宮時代は、「支配・被支配」の歴史的パラダイムをもっていました。
水瓶宮で象わされる天皇の歴史は、望むと望まざるとにかかわらず、「支配・被支配」の権力闘争に巻き込まれたり、利用されたのは当然です。
しかし、天皇が時の権力者から殺されることなく、またその立場が奪われることもなく、むしろ、天皇の立場や権威を簒奪しようとした者のほうが逆に滅び、約2,000年近く皇統が続いてきたのは、大きく2つの根本理由が挙げられます。
一つは、初代「応神天皇と仁徳天皇」の仁政(徳政)の功徳(くどく)が、日本人の中に無意識の記憶(DNA)として受け継がれ、天皇が「和」と「平和」と「権威」の象徴となっていたからです。
もう一つは、日本人の民族性が高い霊性や美しい無私(奉仕)の信奉精神を持つ「魚宮」であるからです。
伊勢神宮に詣でたおり、次の歌を西行法師が詠んでいます。
「何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」
大和心の原点がここに見出せます。
この感性こそ、見えない存在や真理を直感する魚宮の「霊性」や「信奉」の心を象わしています。
そして、宝瓶宮時代。
水瓶宮の象意を持つ天皇は、かつての統一大和を築いた諸国連合による「和」と「平和」の原点、いわば「友愛」ともいえる御意に戻られました。
天皇制は、事実上の初代「応神天皇や仁徳天皇」の「仁政」や「徳政」によって支持され、続くようになったことを最初に書きました。
今でも、明治天皇は「睦仁(むつひと)」、大正天皇は「嘉仁(よしひと)」、昭和天皇は「裕仁(ひろひと)」、今上天皇は「明仁(あきひと)」、そして皇太子殿下は「徳仁(なるひと)」と、「仁」の諱(いみな:本名)を持つことは、天皇の原点を表わしています。
One-Point ◆ 天皇の責務は大変です。よほどの人徳や克己心を備えていないと、見えない力に翻弄されます。また、日本のみならず世界の平和と、日本国民をはじめ諸国民の弥栄(いやさか)を願う精神的支柱になりえません。天皇が「天皇」であるかぎり、また日本国民が「天皇」を支持するかぎり、宝瓶宮時代の日本は世界の精神的、かつスピリチュアルな支柱になることはあっても、滅びることはありえません。
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