宝瓶宮占星学 ―宝瓶宮時代の新しい西洋占星術―
●第1稿 : 2006年 2月 1日アップ
●改訂稿 : 2009年 7月10日アップ
●再改訂稿 : 2022年 3月28日アップ
誤まって“西洋占星術”とカテゴライズ(範疇化)すると、次のようにいえます。
白羊宮時代(はくようきゅう じだい)の古代オリエントの「天体観測」も、双魚宮時代(そうぎょきゅう じだい)の「アストロロジー」(通称:古典占星学)も、末期の「現代占星術」もみんな同じ。
さらには、宝瓶宮時代(ほうへいきゅう じだい)の新しい「アストロロジー」(通称:宝瓶宮占星学)も同じじゃんとなります。
広い意味でそうとらえてしまいがちですが、大きな勘違い、事実誤認です。
正しくは、本来の「アストロロジー」とは似て非なる“占い”が現代の占星術です。
俗に“西洋占星術”と呼ばれています。
いずれにしても「ホロスコープ」の元となる星の動きこと「天体観測」が確立されたのは、紀元前の白羊宮時代でした。
この時代、天体観測の起点となる「春分点」が、おひつじ座(Aries)にあったため、最初のサイン(Sign=宮)を「牡羊宮」(Sign Aries=白羊宮)と呼ぶようになりました。
天体観測の揺籃(ようらん)から約4,000年ほど経った今日、これまで約2,160年続いた双魚宮時代は、すでにその影響力を失いつつあります。
ただし、2009年頃以降、「双魚宮時代のリバイバル」のディレクション(運勢変化、時代変化)が2023〜2025年頃まで続くため、実感しにくい側面が生じるのはしかたありません。
また、人の意識に双魚宮時代の習慣や社会通念また価値観が残っていますので、新しい宝瓶宮時代の文化や生活に完全に移行するには、もうしばらく時が必要です。
占星学も同じです。
双魚宮時代のアストロロジー(通称:古典占星学)の残滓を残す現代占星術から、宝瓶宮時代の新しいアストロロジー(通称:宝瓶宮占星学)に変わっていくには、相応の時を経なければなりません。
では、なぜ変わるのか? という疑問にお答えするために、占星学の変遷を簡単に見てまいりましょう。
One-Point ◆ 占星学的な時代区分については、前のページの「宝瓶宮時代と占星学」をご参照ください。春分点の移動に由来するプラトン年(グレートイヤー=約25,920年:計算値)を1年とした場合、各月にあたる12か月に分けたものをプラトン月(グレートマンス=約2,160年:計算値)といいます。このプラトン月が占星学的な時代区分の「白羊宮時代」や「双魚宮時代」また「宝瓶宮時代」などです。通常のサイン(宮)の順番とは逆回りに移動していきます。
●世界四大文明発祥の一つチグリス・ユーフラテス川の周辺に古代バビロニアはありました。
ここの知識階層カルデア人による長年の天体観測によって、ホロスコープの基礎は築かれていきました。
白羊宮時代は、紀元前2,000年ほど前からはじまりました。
宝瓶宮占星学が解き明かした「春分点」の基点に従って厳密に書けば、紀元前約2,330年前になります。
白羊宮時代以前の金牛宮時代の古代エジプトにも天体観測はありました。
しかし、古代バビロニアの知識階級であったカルデア人の天体観測(ホロスコポス)によって、古代ギリシャ時代に発祥したアストロロジー(通称:古典占星学)の基礎が確立されたのです。
古代バビロニア帝国が築かれたメソポタミア地方は、日本から見れば西洋方面ですが、ヨーロッパから見れば東洋(古代オリエント=現代の中近東)です。
そのため、この時代は正しくは“西洋占星術”ではなく「古代オリエント占星学」と呼ぶべきでしょう。
この天体観測をベースに「ホロスコープ」が発祥していくのは、白羊宮時代の末期、すなわち双魚宮時代の前史である紀元前530〜紀元前170年のことです。
医学の祖と称される当時のヒポクラテスをはじめ古代ギリシャの先達たちは、当時の最先端の学問だったアストロロジー(通称:古典占星学)を自らの学問に取り入れました。
さらに、双魚宮時代に入った紀元前170年以降、プトレマイオスはアストロロジーを『テトラビブロス』に集大成したことが、双魚宮時代に医学を含む「学問」(当時の科学、今では疑似科学)として広まったのです。
One-Point ◆ アレキサンダー大王で有名な紀元前300年頃のアレクサンドロス帝国の時代、高度な知識階級のカルデア人は、1年の長さが365日6時間11分であることや、月の満ち欠けが29日12時間44分であることを知っていました。カルデア人は当時の最先端の科学集団だったので、彼らの高度な知識や天体観測は、古代ギリシャの学問や哲学に取り入れられていったのです。
●一方でカルデア人は、星の運行と地上で起きる出来事とが、何らかの関係にあることを見抜きました。
それは、現代西洋占星術とは必ずしも同じ解釈ではありませんが、国王などに進言していたようです。
これらが古代ギリシャでその世界観「四大元素説」に基づいて理論体系化され、当時のアストロロジー(通称:古典占星学)が発祥していきます。
そういった経緯もあって、19世紀中頃の「海王星」発見以降、通用しなくなっていたアストロロジーの理論を捨てて占いに特化したのが、オカルトチックな現代占星術のはじまりです。
白羊宮時代、カルデア人による「古代オリエント占星学」は、今の占い同然の現代占星術とは異なります。
古代オリエントの占星学は、占いというより、国王の御用学に近く、国家にとって必要不可欠な役割を果たしていました。
四季の変化の乏しい古代オリエントでは、種まきの時期や河川の氾濫の時期など、為政(国のまつりごと)のためには「時」を知ることが重要でした。
そのためには、いつを年のはじまりとするか定めなければなりません。
それが「春分点」(今でいう牡羊宮の0度)だったのです。
現代では毎年の3月20日〜22日「春分の日」に当たります。
それが古代バビロニアの1年のはじまりでした。
カルデア人は星を観測して、春分点を起点に「時」を観測しました。
そうして国王に為政のために必要な「時」を教えていたのです。
現代ではカレンダーがあって、1年のはじまり1月1日が定められています。
それゆえ今日は何月何日か、年度のはじまりや、平年とどれくらい気候が違うか、あと何日で春が来るか、または秋になるのかなど、誰でも簡単に知ることができます。
私たちの生活に欠かすことのできない「カレンダー」は、その語源が「カルデア人」に由来していると言えばお分かりでしょうか。
このように白羊宮時代の「古代オリエント占星学」は、現代の吉凶判断やオカルト的な庶民向けの西洋占星術(星占い)とは、根本的に違ったのです。
One-Point ◆ 現代の占星学会の中にも、現代占星術が単なる占いに堕するのではなく国家に役立つようになるべきだという意見もあるようです。このような実学としての占星学の復権を願う声は、宝瓶宮占星学の流れと軌を一にするものだといえます。現状では難しいでしょうが…。
白羊宮時代の「古代オリエント占星学」が、国王や為政のためであったということは、白羊宮(牡羊宮)のシンボルマーク(牡羊の頭部といわれること)からも読み取れます。
牡羊宮の象意が“正義”や“闘争”(進取=リード)や“頭部”であることは、占星術を勉強したことがあるかたならご存じだと思います。
同様に、この時代は、国のトップ(頭部)である国王や、政治(規律・正義・闘争)のため実学として時代を進取(リード)していたのです。
さて、白羊宮時代がいつからいつまでかということは、一般的には正確なところは分かっていません。
しかし、宝瓶宮占星学では、占星学的な時代区分「白羊宮時代」や「双魚宮時代」また「宝瓶宮時代」の元となるプラトン年(グレートイヤー)を提示したピッパルコスの生存年などから、いつからいつまでなのかを明示しています。
また、宝瓶宮時代のはじまりを告げる「宝瓶宮時代のビックバン(1989)」を裏付ける星の配置や、それと見事に符合するさまざまな社会事象からも同じです。
これらから双魚宮時代のはじまり、すなわち春分点の基点(春分原点)が紀元前171年だと、はっきり言い切れるのです。
それゆえ、白羊宮時代は紀元前2,330年頃から紀元前171年ころまでだといえます。
なかには「信じられない!」と感じるかたもいらっしゃるでしょうが…。
詳しくは、「宝瓶宮時代の根拠」や「近未来予測=基礎編」「近未来予測=実際編」などをご高覧ください。
One-Point ◆ 双魚宮時代がはじまったのち、質実剛健なローマ大帝国が建国された紀元前100年頃から、その精神が失われていった紀元100年頃までの200年の間に、白羊宮時代の影響は、ほぼ完全に終わったといえます。